神社の創建と歴史背景
深川神社境内には、石室の中心が約4メートル四方の横穴式円墳がある。この古墳からの発掘物は現存していないが、石積みの方法から6世紀頃のものと推定されている。古墳の存在は、この場所が辺り一帯を治める長をお祀りしていた「聖域」であったことを示している。また、この地区は良質な陶土に恵まれていることから、土器等を作って生活する集団の中心的な場所であったと言われている。
奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。
神社と信長
室町時代、神仏習合しており、当神社にも他同様に神宮寺があった。この辺りは、特に社僧の力が強く、神社の社掌が中絶していた。当神社にも神宮寺があった遺物として、梵鐘・永享10年(1438)があり、瀬戸市の文化財に指定されている。
応仁の乱以降、京都を逃れてきた藤原家一門の公家であった守栄は、藤原系の縁を頼りに転々とし、瀬戸村に至り、天皇家に繋がる神を祀る深川天神にたどり着いた。当時、ちょうど社司が不在で、読み書きのできる人を必要としていたことから、この地に落ち着くことになった。
永禄年間(1560年代)の8代宮司・護弘の時、信長が、鷹狩の際に参拝した折、美濃の斉藤龍興の刺客に襲われそうになったが、護弘の機転で難を逃れ、その御礼に七十五石の供米を賜ったと事蹟がある。その後、慶長元年(1596)に、同じく8代・護弘のとき、天神ノ森より出火し全焼。この火災で残ったのは、狛犬の吽型と梵鐘のみであった。
江戸時代以降から近代まで
尾張誌によると、「深川神社。瀬戸村にありて、今は、八王子の社ともうす。祭神は、五男三女の神なり」と、かつては、八王子社と呼ばれていた。現在の本殿は、文政元年(1818)8月から同6年(1823)12月にかけて15代宮司・守恒のときに建設された。本殿は、諏訪の名匠立川流の立川和四郎富昌(1782~1856)の作で、優美な彫刻が施され、瀬戸市指定文化財になっている。
また、文政7年(1824)には、陶祖・藤四郎の偉業を称えお祀りする陶彦(すえひこ)社が創建された。現在の陶彦社は、大正15年(1926)、21代宮司・武のときに遷宮が行なわれたもので、設計は、宮内庁に勤め正倉院などを手掛けてきた伊藤平二による。斬新で洗練されたデザインの貴重な建造物である。平成12年(2000)より、73年ぶりに深川神社と陶彦社社殿の修復工事を行い、平成14年(2002)10月に竣工奉祝祭を納め現在に至る。
- 平成11年11月12日
- 瀬戸市指定有形文化財に指定
御祭神
五男三女神 天照皇大神の八人の御子
- 天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
- 天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
- 天津日子根命(あまつひこねのみこと)
- 活津日子根命(いくつひこねのみこと)
- 能野久須毘命(くまぬくすびのみこと)
- 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
- 多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
- 市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)
アマテラスとスサノオとの間で交わされた誓約(事の吉凶、是非などを神意に伺う行為)で生まれた五男三女神。
天之忍穂耳尊は、男神の第1子で、皇室の祖神。高天原から筑紫日向の高千穂に天孫降臨したニニギノミコトは、その子。天之菩卑能命は、男神の第2子で、出雲大社創建より祭祀を司る出雲国造の祖神。宗像(むなかた)三神と言われる多紀理毘売命、多岐都比売命、市寸嶋比売命は、天孫降臨に先立ち、宗像の地(福岡県宗像郡)に鎮まったとされ、玄界灘の海上交通を守護する神として古来より崇敬されている。この八柱の神を祀った神社は「八王子」の名で各地に多く、当時の朝廷の勢力拡大をうかがうことができる。
家内安全、安産、子孫繁栄などの諸願成就をご祈願下さい。
神社と瀬戸陶業の祖
瀬戸の焼物の祖と言われる、加藤四郎左エ門景正(藤四郎)が、深川神社東隣の陶彦(すえひこ)神社に祀られている。藤四郎は、1190年代、現在の奈良近郊で、藤原元安という役人の家に生まれる。成人後は、久我大納言道親郷に仕え、五位の緒太夫であった。名は景正、別号は春慶という。深草(現・京都市伏見区)で土器類を作り、高麗(朝鮮)などの焼物を蒐集しその焼成方法を研究していた。貞応2年(1223)、道元禅師に随行し宋(中国)へ渡り、6年間焼物造りの秘法を学んだ。
帰国後は、焼物に適した良質の粘土を求め全国行脚。途中、瀬戸に立ち寄り当神社に参篭した際、「神社より巽の方角(南東)、祖母懐の地に、良土がある」という神のお告げを受け、良い木節粘土を発掘した。以後、瀬戸に窯を築き釉薬の開発に貢献するなどして瀬戸陶業の始祖となった。当神社にある国の重要文化財「狛犬」は、神のお告げに感謝した藤四郎が奉納したものとされている。