樵(きこ)る
2024年10月03日
2月18日一本のヒマヤラスギの枝を払い、19日に命を絶った。
陶祖を祀る陶彦社の北東に位置し、隣の三階建ての家屋を越える高さ。幹の周りは大人が一抱えするぐらい。樹齢は年輪からすると五十数年。
針葉樹だが葉が太くて長い。落葉すると土に潜り込んで箒で掃いてもとれない。御垣内もその一角は堆積した葉でふかふかだ。台風などで倒れることも多いヒマヤラスギは根が浅く横に張るからだ。将来的に何かあってからでは遅い。お社を壊すか民家を潰すか、ゾッとする。
作業の前にお祓いをした。木に宿る神様に伐ることを告げ奉り許しを乞うた。といっても、人間の勝手な理由であって当の本人(樹木)には不当な話だ。不当だが安全に行われなければならない。重機を入れられない場所なので木に登って上から落としていく、特殊伐採。作業の一人が言われた「命もらうんやから」。その言外に『きっちりやらんといかん』という気持ちが込められていると感じた。
12センチほどの大きな種をみつけた。切株の年輪からすると樹齢五十四、五年。風雨に耐えここまできたことを思うと、やはり心にチクリとくる。しかしながら、ヒマヤラスギのいなくなった陶彦社のお社は、背後から覆いかぶさる大きな陰が消え、すっきりとした様子だった。建物を守るにはよかったのだろうか。
鬼瓦に寄せて
2024年10月03日
ようやく胸のつかえがとれました。
写真の鬼瓦は、平成の修復事業(平成12年~14年)に幣殿の屋根から下ろしたものです。本来は高い、高い大屋根から四方を睨んで見守り続ける鬼瓦は、十年以上もの間地に降りて物陰にひっそりとした場所に追いやられておりました。その姿を見るにつけ、申し訳なさとよき手立てがない情けなさ、何とかしなければいけない、という焦燥感で胸を痛めておりました。
昭和四年に改修工事を行っているので、鬼瓦も当時の瓦職人加藤栄氏が焼かれたものだそうです。瀬戸で造られた瓦、しかも、織部釉で造詣も素晴らしいものですから貴重な逸品です。その鬼瓦を日の当たる場所に戻し、よい形で皆さんに見ていただきたいという思いを燻らせて今日まで来ました。
そして、ようやくその希望が叶ったのです。それも、こんなにも素晴らしい形で展示することができました。鬼がきちんと納まるようにと、瓦の輪郭に合わせちょうど富士山のような形に削った御影石に載せらせたとき、胸が高鳴りました。そして「ああ、やっとこれで落ち着いた」と安堵しました。
作業は、12月15日から17日に行われましたが、中日の16日は身を切るような非常に冷たい雨が一日中降りしきる最悪の状況でした。きっと指先の感覚などないほどだったでしょうに、水のたまった現場で黙々と作業を続ける職人の姿に本当に頭が下がりました。
今年を振り返ると、まずは、4月、一世一代の大事業、撤去された一の鳥居の再建、8月の傾いた灯篭の移転、そして、今回の降ろされた鬼瓦の据え付け、といずれも神社の歴史に刻むべき事柄が続き、非常に動きのある年だったと言えます。これらを通じて学ばせていただいたことは、神社を預かるものがなすべきは、その時代、その時代に生きた人々の神様への気持ちを生かすべく「もの生かす」ということです。
人は生きて死んで、また生まれて死んでいきます。職人が生み出すものは、人の一生よりうんと命の長いものが多いです。作り手の思いが込められるから魂が宿るのでしょう。宿った命をまた次に渡していくことが、限りある命の人間の役目だと強く認識しました。
一年、一年はつながっていますが、一年、一年が新しい。
新たな年がよき年となるよう、お祈りいたしております。
東京2020オリンピック聖火リレーを終えて
2024年10月03日
あれから一週間、実際にあったのだろうかと幻のように思えるくらい遠く、眩しく感じる出来事だった。
4月5日東京2020オリンピック聖火リレーの愛知県出発地。昨年はコロナ禍で延期となり、今年の開催もぎりぎりまで揺れていた。当神社で本当に出発式が行われると実感できたのは、4月4日に会場設営のため境内が大量のコーンとバーで仕切りが設けられたのを見たときだった。慌ただしく出入りする関係者や車。岐阜での聖火リレーを終えてから夜遅く到着する人達。いよいよ明日。
当日は朝6時から会場作りが始まった。手際よく組み立てられる舞台。その端でどこかのテレビ局のキャスターの撮影が行われる。上空では報道ヘリコプターがパラパラと旋回する。これまでも神社で様々な神事や催しを執り行ったことはあるが、この催しは動いている人の数が全く違う。日本IOCの聖火リレーを取り仕切る人たち、運営業者、設営業者、瀬戸市役所職員、警察、警備員など分かるだけでも多岐にわたる。オリンピックという世界的な祭典を無事にやり遂げようという緊張感や意気込みが見ているだけで伝わってくる。
あちこちバタバタ動き回る人たち中で、私の目に留まったグループがある。聖火ランナーが着用しているウエアに似たデザインで薄ベージュ色のウエアを身に着けた人たち。おそらく聖火リレーそのものと聖火ランナーを補佐している方々だと思われる。その中心の人であろうか「お世話になります」と丁寧に挨拶をされ、拝殿前ではきっちりとお参りをされていた。いよいよ式典が始まろうとするとき同じウエアの5、6名が境内に入る階段を上がってきた。鳥居をくぐる前に誰もが一礼された。この光景を見たとき、このような人達が支える偉大な行事はきっと成功するだろうと思った。聖火リレーの経由地となっている場所は、愛知県だけでも熱田神宮、国府宮、真清田神社など神社が多いので、もちろん事前にそのような作法を徹底されているのかもしれない。もしそうだとしても、首を垂れる姿は本物である。
愛知県聖火リレーの出発地に選んでいただいたことは、またとないたいへん名誉なことであり、瀬戸の人々が歓喜する様子を大神様もたいそう慶んでご覧になられていたことと思う。「Hope Lights Our Way ~希望の道をつなごう~」との言葉を掲げた聖火リレーが、最終地点まで滞ることなく安全に執り行われることを祈るばかりである。
麗しき御本殿によせて
2024年10月03日
文政6年(1823)諏訪の名工立川和四郎富昌の手により本殿が造営されてより今年は200年の節目の年。毎朝、本殿に榊を奉るときに見上げる彫刻は、何度見てもその端正な美しさに見飽きることはない。御神前は四つん這いになって拭き掃除をする。そのときの鉄則は「不意に頭をあげるな!」である。不用意に立ち上がろうものなら誤って彫刻にぶつかり破損することになる。長い年月や雨風、虫などの自然のモノにより傷ついたり、損なわれたりするのは止むを得ないが、人為的に壊れるようなことは神様に奉仕する身として絶対にあってはならないことである。
平成の大改修(平成12年~14年)で本殿の彫刻も大々的に修繕しており、その10年後にも手入れをしているので現在も非常に良い状態で維持できている。現代のように便利な道具や電動の機械、大型の重機もない時代に5年の歳月をかけて築き上げる工程は、材木を伐り出す、運ぶことから始まり、いかに時間と手間が必要だったであろう。櫓一つ組むにも大仕事であったろうが、実際の苦労は今では想像しがたい。
平成25年に宮彫写真家の若林氏から本殿の撮影をしたいと申し出があった。本殿を撮る、即ち「神様の御座所に対してレンズを向けシャッターを切る」ということに正直なところ一瞬ためらいはあった。しかしながら、抗うことのできない時の流れで今の良い状態をこれから先いつまで維持できるか分からない、また、素晴らしい本殿があること(後世にはあったこと)を残せる一つの良策にもなるのではないかと考えお受けした。
そして、本年を迎える。
一般の人々にはなかなかご覧いただくことができない本殿である。この好機にその超絶技巧を見ていただくことができる写真展を開催することにした。その精緻な美しさを鑑賞していただきたいのはもちろんだが、もう一つ感じていただきたいのは、その当時の人々の敬神の念の篤さ、これだけの本殿をおらが村に築こうという熱い思いと財を投入できる瀬戸の街の勢いである。
200年前の人は誰も生きていないが、立川の手により建てられた本殿は200年の時を生き抜いて現存する。古の人々の想いを組んだ本殿、御神徳を高めるべく装飾された宮彫、若林氏がそれを撮る、記念写真展を開催する、それぞれの点と点が結びついて時空を超えて線になる。神様の思し召しであろうご神縁。これからも大神様は瀬戸の街を、瀬戸の人々を行く末永く見守り続けて下さることであろう。