瀬戸歳時記4
2024年10月03日
「幻の陶祖碑」を探し求めて
元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
瀬戸公園(陶祖公園)には、慶応3年(1867)に完成した「六角陶碑」(陶祖碑)があります。この六角陶碑より80年も前に建碑計画があったことは、昭和12年(1937)発行の寺内信一著 『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』によって知られています。その内容は、
安永(1772-81)頃に至り御窯師の役を奉ず、これを春暁という。(略)春暁慷慨(こうがい)の志あり。陶祖の伝記世に湮滅(いんめつ)せん事をおもんばかり、つとに陶碑を建てんと志し、名古屋の千村諸成等にその伝を作らしめ、着手するに先立ち歿す。(略)
というものです。ここに登場する「春暁」は陶祖嫡流家の窯屋武右衛門のことで、当時瀬戸村の庄屋をつとめていました。加藤唐左衛門の「陶器古伝記」によると、「安永拾年巳正月七日(4月2日天明と改元) 武右衛門代繁吉」と記されることから、このころ春暁の身体に何かがあったことを暗示しています。また「千村諸成」は尾張藩士で、余暇には陶器を制作し、瀬戸で焼かせたとされる人物であります。文中に「着手するに先立ち歿す」とありますが、この記述では春暁が没した後、着手されたのかどうか判然としません。
そうしたなか、これを明らかにする興味深い「書簡」が確認できたのです。それは尾張藩士内藤東甫から、やはり藩士の大坂天満屋敷奉行中西与一右衛門宛に出されたものであります。内藤東甫は500石の藩士で 『張州雑志』の編纂者であり、絵画と雅事にすぐれていたされます。一方、中西与一右衛門は大坂で藩の資金調達を担当、御扶持30人で尾張藩に召し抱えられています。かれは柳沢淇園、高芙蓉、池大雅などと交遊した文人でもありました。ほかにも同様の書簡が複数残されており、その内容からは東甫と与一右衛門との交流の深さが垣間見えます。人物紹介はさておき、一部分ではありますが書簡の内容をみてみましょう。
当国瀬戸村藤四郎は陶器に名ある者にてご座候。当年五百五十年の由、藤四郎が末孫春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。この後詩歌等を集め申し候て、集を出し申したく願い申し候。 (略)
書簡は10月15日付けのもので、ここに記される「当年」とは、同書簡の別の項に「来る廿五日、府下極楽寺において書画会致し候筈」という文言があり、書画会(「春興余事」)が安永9年(1780)10月25日に開催されていることから、「安永9年」であることがわかります。さらに陶祖伝記によると、藤四郎は貞応2年(1223)に道元禅師に従って中国にわたり、焼物の技法を学んで帰国、その後製陶に適した土を求めて全国をめぐり、ついに瀬戸の祖母懐で良土を発見して窯を開いたというものですが、春暁はこの開窯年を「当年五百五十年」、すなわち安永9年から遡ること550年の寛喜2年(1230)と考えていたことが読み取れます。
さて本題の陶祖碑建立ですが、文中に「春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。」とあることから、安永9年に春暁によって焼物でつくられた藤四郎碑が建てられ、そこには碑銘などもできていたことがわかります。ちなみに、春暁は2年前の同7年(1778)春に、天中和尚ゆかりの神蔵寺(名古屋市名東区)に陶製の戒壇石を奉納しています。『民吉街道』には加藤庄三氏のスケッチが載せられており、先のとがった高さ1メートルの四角柱で、「界内禁葷酒」の文字が刻まれていたことがわかります。陶祖碑がどんな形で、どこに建てられたかはわかりませんが、どうやら瀬戸公園の六角陶碑よりも80年も前に陶祖碑が建立されたのは確かなようであります。どうにかして、この陶祖碑を探し当てたいものです。
さらに陶祖碑とは別に、記念の詩歌集も計画されていたことがわかります。時代は下った明治13年に刊行された 『尾張名所図会 後編』には、藤四郎の絵と賛が載せられています。前出の内藤東甫が藤四郎の作陶風景の画を、人見?が藤四郎の伝記と褒め言葉を書いています。この人見?は尾張藩の国用人で国奉行を兼帯し、九代藩主宗睦の絶大な信頼のもと、藩の天明・寛政の改革を主導した人物であります。人見?が書き記した『人見?文艸』にも、同一の文言による「春慶(藤四郎のこと)伝」がおさめられています。安永8年9月15日の日付からすると、もしかすると計画されていた詩歌集に載せるつもりの作品であったのかもしれません。
『尾張名所図絵』
主な参考図書:『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』・『愛知県史 資料編20』・『民吉街道』