深川神社

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瀬戸歳時記3

2024年10月03日

古文書鑑賞で「民吉の活躍した世界」を追体験

元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
磁祖と崇められる加藤民吉は、江戸時代後期の明和9年(1772)2月20日に瀬戸村で生まれました。今年は民吉が生まれてから250年という節目の年にあたります。瀬戸市美術館で、これを記念した特別展「加藤民吉の真実 -天草における九州修業-」が開催されています。
令和2年(2020)から始まった民吉生誕250年プレ事業の「初期瀬戸染付の謎」展、令和3年の「川本治兵衛」展のような染付作品の展示とは異なり、今回は文献資料が中心となっています。これまでの美術品の鑑賞とは、趣がおおきく異なることに気づくことでしょう。
今日までに刊行された『瀬戸市史陶磁史篇三 -瀬戸の染付焼-』や、郷土史研究家で市史編纂委員でもあった加藤庄三著・加藤正高編の『民吉街道』は、まさに今回展示されている文献資料などによって成り立っているのです。こうした古文書や書簡・日記などに出会うことにより、「民吉の活躍した世界」に身を置いてみるのもおもしろい体験と思います。
ここでは、民吉に出会える基本的な史料3点を紹介いたします。

「陶器古伝記写」(「染付焼物御発端之事」は民吉父子が磁器の試し焼きに成功した時代)
瀬戸村の庄屋で窯元取締役であった加藤唐左衛門によって記されたものの写しです。寛政から天保年間(1789-1844)に至る、窯屋に関する出来事が詳細に記録されています。染付焼の開発から御蔵会所の取りたて、染付焼流通における掟、染付焼転職窯屋人別町など、初期染付焼がどのように展開されていったか知るうえで基本的な史料となっています。
なかでも「染付焼物御発端之事」は、染付磁器の試作に成功した経緯が記されています。享和元年(1801)3月に熱田前新田が築かれたのをうけ、民吉は父の吉左衛門とともに百姓を希望し入植しました。開墾に従事していたところ、不調法な姿が熱田奉行津金文左衛門の目に留まります。文左衛門は屋敷に呼んで窯職に精を出すなら、南京焼の製法を伝授すると民吉父子に伝えました。すると、彼らは大いに喜び、あれこれ指図を受けながら染付焼の開発に取り組みます。同年9月には小さな製品ながらも、南京焼と紛らわしいほどの染付焼を焼くことに成功したというものです。

「陶器古伝記写」・「染付焼物御発端之事」
(瀬戸蔵ミュージアム蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

「染付焼起原」(民吉が九州天草・肥前で修業した時代)
文化元年(1804)2月22日、磁器製造技法の習得の使命を担った民吉は、同郷(菱野村)出身の東向寺天中和尚を頼り九州天草へ渡ります。高浜皿山での修業を手始めに肥前へと渡り修業に専念します。同4年(1807)6月18日、磁器製法のさまざまな技術を学び帰郷します。この九州修業の一部始終を記したものが「染付焼起原」(そめつけやききげん)です。これは、深川神社十五代二宮守恒(もりつね)が文政元年(1818)11月に民吉の口述を記録したものです。民吉の九州修業の様子が手に取るようにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(民吉が天草で修業した時代)
東向寺天中和尚の紹介で、民吉は高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)を訪れます。このときの天中和尚から宜珍に宛てられた書状が残されています。宜珍は源作とも呼ばれ、父の庄屋職を世襲するとともに窯職も引き継いでいます。天草は磁器の原料となる陶石の産地であり、この地で産する「天草陶石」はわが国最良の磁器原料として知られています。民吉は宜珍の経営する高浜窯で働くことになります。宜珍は詳細に日記を記しており、民吉のここでの修業の姿をうかがい知ることができます。「染付焼起原」の内容を裏付けるもので、今回瀬戸で初めて公開されています。天草における民吉の様子がつぶさにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(上田資 料館蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

本展覧会は、9月11日(日)まで開催されていますが、詳しくは瀬戸市美術館のホームページを確認ください。

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