深川神社

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瀬戸歳時記2

2024年10月03日

御本殿と立川流彫刻

伊藤平左エ門建築事務所 望月 義伸

社の正面が拝殿、その奥に幣殿、渡殿とつづき、御祭神の鎮座される本殿がある。本殿は、切妻屋根の正面側が長く伸びやかな 流れ造り と呼ばれる様式。屋根は銅板葺(当初は、柿板葺)、木材は欅(ケヤキ)造り。各所に彫刻がほどこされ、その美しさに心打たれる。ただ目立つだけの彫刻ではなく、建築全体と彫刻とが調和して、晴れやかで清々しくもある。
社殿は、慶長元年(1596)に森からの出火で焼失し再建。その後4回の遷宮を経て、今の本殿が文政6年(1823)に上棟。その上棟式に用いた槌が現存しており、銘には
「深川大神再建造立巧匠 信州上諏訪 立川内匠冨昌(花押)」
「維時文政六年癸未十二月二日吉祥日」
とあり、諏訪の名匠 立川和四郎冨昌(1744~1804)41歳の作であることが判る。

冨昌は、立川流と称される二代目。
父で初代の和四郎冨棟(1744~1807)は、代々の桶職を継ぐことなく、江戸にて宮大工の立川小兵衛富房<注1>の弟子となる。
立川(たてかわ)姓を許され諏訪に戻るが、再度、宮彫師の弟子となり独立する。諏訪大社の秋宮を建築。春宮を建てた大隈流の名匠 村田長左衛門<注2>との腕比べで名声を得る。

江戸時代の建築で最も称賛されたものに、日光東照宮の左甚五郎の彫刻がある。
幕末に至り、富棟に始まる立川流に代表される、彩色をしない素木での力強く迫力のある彫刻により、再び大きく開花する。その中でも、初代を凌ぐ技量で、卓越した彫刻の建築や山車を作り、もっとも完成度を高めたのが冨昌である。
春日井の内々神社造営中の文化4年に初代冨棟が没する。内々神社の竣工後の文化年間には、おそらく深川神社本殿の仕事を冨昌が進めていたと考えられるが、上棟するのに、豊川稲荷の造営後の文政6年までかかっている。

あらためて、本殿の彫刻をみると、私見ではあるが、力強い技量に満ちた彫刻の中に他の作品にはない 間というか、静を感じる。勝手な想像であるが、冨昌が瀬戸を訪れ、燃え盛る火で出来る陶芸の美にふれ、厳しいものを内に秘め美しくも静かな茶の世界を感じたのではないか。
江戸を中心とした化政文化は、庶民の芸術である浮世絵に象徴される粋でビジュアルな文化であり、冨昌も彫刻で新境地を開いた文化人でもある。
冨昌は、絵はもちろんのこと、作陶もする茶人でもあったと伝わる。彫刻にも「さび」の世界を瀬戸で試みたとすれば、それも新境地といえないか?

本殿の竣工後、冨昌は半田亀崎神社などの山車、立川三代にわたり力を注いだ静岡浅間神社の復興、京都御所の門の彫刻などの名作を造るが、安政3年に塩尻の永福寺境内の大木(欅)の伐採中に倒木にて亡くなる。享年74歳 木に魂を刻み続けた棟梁が、木に命を刻んだ瞬間であった。
その後も立川流は息子の三代和四郎富重(1815~1872)と続くが、宮大工としての立川流は四代にて終焉する。しかし、冨昌ら立川一門の仕事は、弟子やその子孫にと伝わり、幕末からの明治へと東海地方にも大きな影響を与える。そして、立川流の作品に感銘した多くの彫物師が活躍してゆく。

<注>
※1 立川小兵衛富房 安永3年(1774)没
江戸立川流の初代 大隈流(平内大隈守の流派)に学び、住んでいた地名より立川を称す著書に規矩術書の「軒廻捶雛形」、絵様集の「大和絵様集」がある

※2 村田(柴宮)長左衛門矩重 延享4年(1747)生
諏訪の大工棟梁 兄は、藩の作事方大工 伊藤儀左衛門
冨棟とは同世代で、諏訪大神の秋宮で彫刻などの高い技量を競って春宮を建築
諏訪周辺に作品を残す

<参考資料> 信濃毎日新聞1977年版 時代を駆ける「大隈流と立川流」他

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