深川神社

瀬戸歳時記

開業120周年を迎えた「せとでん」 ~その2

2026年03月30日

開業120周年を迎えた「せとでん」 ~その2

鉄道愛好家 山田 司

昨年12月、この歳時記で瀬戸の町には欠かせない乗り物、名鉄瀬戸線120周年にちなんで、その成り立ちや足跡についておおまかにお話をさせていただきました。その第二弾です。相変わらずの駄文となりますが再度お付き合い願えましたら光栄です。

<旧尾張瀬戸駅>

【瀬戸線の栄町乗入れから半世紀】

ちょうど50年前の2月14日、瀬戸線にとって歴史的な出来事がありました。その出来事とは、1976(昭和51)年2月14日の名古屋城外堀区間 堀川~土居下の営業終了(廃止は翌2月15日付)です。言うまでもなく、それは栄町乗入れを前提とした部分廃止でしたが、鉄道路線の起点側が部分廃止となって別の起点に付け変わる、ということ自体、比較的珍しい例ではないかと思います。

外堀区間廃止と同時に栄町乗入れのトンネル工事が開始され、栄町開業までの約2年半、暫定的に瀬戸線の起点として土居下(仮)駅が設けられました。1978(昭和53)年2月、瀬戸線の開業以来続いてきた貨物輸送が廃止され、瀬戸線の敷設目的の一つが失われると同時に、栄町乗入れによる都市近郊形路線としての性格付けの明確化が成されることとなります。そして貨物輸送廃止の翌月、瀬戸線の架線電圧が従来の直流600Vから、名古屋本線などと同じ直流1500Vへと昇圧が行われ、それまでの車両は一夜にして全て入れ替えられました。従来の車両数28両に対して新たに34両が入り、うち12両は瀬戸線が1939(昭和14)年に名鉄に合併して以来初の新車が投入され大きな話題となりました。それから半年後の1978年8月20日、待望の栄町乗入れが実現し、栄町駅、東大手駅が新たに開業。この日を境に、瀬戸線が生まれ変わったと言っても過言ではありません。

<尾張瀬戸駅新築移転前夜>

その後、尾張旭駅の移転改築、印場駅開業、尾張瀬戸駅移転改築をはじめ、駅施設の改良が次々と行われ、喜多山車庫も尾張旭へ移転しました。以前は踏切が多いことでも知られた瀬戸線でしたが、栄町~矢田間はほぼ完全に立体化、近年では喜多山駅も高架化されるなど、栄町乗入れの実現した半世紀前とは大きく様変わりしています。また、1988(昭和63)年の愛知環状鉄道開業も大きな出来事として挙げられ、それは瀬戸線の価値をさらに向上させたと言えるでしょう。

【瀬戸線の車両の移り変わり】

瀬戸線は1905(明治38)年の開業時「瀬戸自動鐡道」という社名で、用意されたのは

フランス製「セルポレー式蒸気動車」でした。この車両はいわばチンチン電車の車内に小型SLのボイラーを積んだような自走車両ですが、どうにも不調ですぐに会社は電化を決定し社名も「瀬戸電気鐡道」と改称、車両もまだ全国に多くはなかった電車を導入しました。当初は2軸車輪の路面電車スタイルに始まり、大正末期には大型化した4軸車ホ103形が主力となります。1936(昭和11)年には急行運転用としての気動車(ガソリンカー)も投入されましたが、これが瀬戸電最後の新車となり、1939(昭和14)年の名鉄合併後は瀬戸線用の新車が作られることはなく、1978(昭和53)年の1500V昇圧実施に至るまで本線の余剰車などが代わる代わる転入して来る状況が続きました。

それでもいくつかの時代の波というものはあり、1966(昭和41)年運転開始の特急に使用されたモ900形7両とク2300形・ク2320形7両には瀬戸線で初めて、自動扉と2両編成の間を行き来するための貫通幌を装備しました。また、特急車としてパノラマカーと同じスカーレットの車体色、逆富士形行先表示板やミュージックホーンも備え、車内が転換クロスシートとされた車両もありましたが、特急用とはいえ昭和初期の車両の改造で、いささか無理のある改装と言わざるを得ないものでした。

<尾張旭の車庫で4種類の顔を合わせた赤い電車>

1970年代に入り沿線の都市化が進むと、車両が小さく混雑に対応しきれないことや半数の車両(29両中14両)が手動扉であることの危険性が指摘されるようになり、1973(昭和48)年には本線から3700系10両の転入と瀬戸線既存車4両の改造で全車自動扉化と輸送力改善が図られました。3700系は瀬戸線初の全金属製車体で、瀬戸線始まって以来の車体長が17m、車体幅も10㎝広い車両でしたので駅ホームはじめ各所の調整を要したそうです。

こうした車両改善が試みられてはいるものの、しかし、戦後の復興期にも高度成長期にも瀬戸線には瀬戸線に合った新車が配置されることがなかったのはなぜでしょうか?巷では「名鉄が瀬戸線を低く見ているからだ」という声も聞かれた時代がありましたが、実は名古屋市の地下鉄計画と関係があります。戦後の地下鉄計画の中に、瀬戸線を現在の地下鉄名城線との乗入れで市役所~栄町にアクセスするという案があり、車両も名城線と同じ軌間(レール幅)1435mm(名鉄の軌間は1067㎜)に拡げることまで想定されていました。この案の検討が昭和40年代まで続き、瀬戸線の栄町単独乗入れが決まるまで、将来を見据えた車両の新造には踏み切れなかったのが実情で、名鉄は瀬戸線を低く見るどころか、都心直結で飛躍させたい思いがあったと見るのが正しいようです。

<試運転が始まった頃の4000系>

栄町乗入れ工事完成が迫り、架線電圧も1500Vに昇圧した瀬戸線には、待望の新車両が配置されました。瀬戸線専用の新車6600系12両と本線から3780系、3770系22両が転入し基本的に本線と同様な車両の運転が可能となった瀬戸線ですが、栄町~東大手は地下鉄同様の保安基準が適用され、車両にはより厳しい不燃化対策や前面非常口の設置などが求められました。栄町乗入れ開始時に34両だった車両数も徐々に増加し、現在では76両(19編成)と、当初の2倍以上に達しています。1990(平成2)年には全車冷房化、1996(平成8)年には車体長17mの2扉車を淘汰し全車が車体長18mの3扉車両に統一、2014(平成26)年には鋼製車体の赤い電車が完全引退し全車ステンレスカーとなった瀬戸線は、名鉄全線の中でも今や車両の面でも大変レベルの高い路線に成長しています。また、現在の車両では瀬戸線の急カーブへの配慮として、主力の4000系(瀬戸線専用形式)の足回りは本線の車両よりも急カーブに強い方式としており、その後に1編成のみ増備された3300系(3306編成)は本線の既存形式ながら足回りを瀬戸線専用に設計変更したものとなっています。この3300系は瀬戸線19編成の中でただ1本、主力の4000系の直線的な顔とは違う丸みのある表情が特徴です。瀬戸線に乗られる機会があれば、ぜひ見つけてみてください。

<1編成だけの3300系>

「瀬戸蔵ミュージアム」に保存展示されているモ750形は昭和30年代から栄町乗入れ直前まで活躍した車両ですが、現在の瀬戸線を走る4000系と比べるとまさに隔世の感があります。外堀区間の廃止と栄町乗入れから半世紀。瀬戸線では線路の立体化や駅、車庫の整備、新しい車両への統一など、常に進化、発展を続けてきました。これからさらに瀬戸線はどう発展し、姿を変えていくのでしょうか。それでも、沿線では「せとでん」と呼ばれる親しみある路線であってほしいと願ってやみません。

まぁるく生きる~幸せのカタチ。~

2026年02月15日

書籍「まぁるく生きる~幸せのカタチ。~」出版に寄せて

ラジオサンキュー パーソナリティ  林ともみ

瀬戸市で生まれて、瀬戸市で育った「せとっこ」の私にとって、深川神社は子どもの頃から大切な場所でした。小さい頃は、近くに住んでいたこともあって、父に連れられて週末はいつも神社に散歩に来ていました。

私もそうですが、子どもたちのお宮参りも、この深川神社でした。

1996年12月31日に生まれた長女は、生まれてすぐに肺が破れて生死をさまよいました。

命の危機を脱してからも何度も体調を崩し、入院中の生後1ヶ月のときに、先天的に障害があることが分かりました。娘が退院するまでの間、何度もこちらを訪れました。

「神社では感謝することが大事で、神頼みはするものではない」

そう聞いてはいましたが、そのときの私は「娘が早く退院できますように」と、必死に神さまにお願いをしていました。

念願かなって退院できたのは翌年の4月1日、娘が生後3か月のときでした。雪の季節から桜の季節になっていました。遅くなってしまったけれど、生後4ヶ月を過ぎた頃に、夫と夫の母も一緒に、お宮参りをしました。

お宮参りは、赤ちゃんが無事に生まれたことを神さまに報告し、今後の健やかな成長を祈る大切な行事。ご祈祷を受けることができて、本当に嬉しかったことを覚えています。

 

また4年後に誕生した息子のお宮参りは、娘も一緒で家族が増えた感謝の気持ちを報告することができました。

娘は現在、身長127cm、体重23kgになりました。

今まで何度も入院しましたし、命の危機もありました。最重度の知的障害、体幹機能障害もあり、何をするにも手助けが必要です。

私は独身時代から、テレビ、ラジオ、舞台と名古屋を中心に芸能活動をしてきたのですが、出産後は仕事を制限しなくてはならなくなりました。でも、そのおかげで、地元瀬戸市の魅力に気づくことができたような気がしています。

地元のラジオ局、ラジオサンキューでも、福祉番組「ともみとともに」のパーソナリティを務めていて、心のバリアフリーの浸透を目指して福祉を発信していますが、2024年度に中日新聞社からお声がけをいただき、中日新聞朝刊、生活面でコラム「まぁるく生きる」を執筆させていただく機会をいただきました。

そのご縁で、昨年10月27日に、ごま書房新社から書籍「まぁるく生きる~幸せのカタチ。~」が出版される運びとなりました。新聞で連載したコラム全25回がもとになっていますが、新たに書き直し、加筆した内容ですので、コラムを読んでくださっていた方も、また違った気持ちで読んでいただける内容になっています。少し本の内容を抜粋してご紹介します。

序章 いのちとともに」

「一生出ることがない穴に落ちた」

娘の障害を告知されたとき、正直そう思いました。

「娘さんは、21番の染色体の片方の上下が欠損し、くっついて丸くなっている21番環状染色体で報告例は世界で100例ほどしかありません」

~中略~

多分、その頃の私は見栄っ張りで、その場では冷静にふるまっていたのですが、帰宅後の私は大泣きでした。

「どうして、こんなバチが当たったの?私は何も悪いことをしてにのに、、」

私は夫に素直な気持ちをぶつけてしまいました。

「バチ」

なぜ、こんなひどい言葉を発していしまったのだろうかと、私は今でもこのときのことを後悔しています。

「そんなことを言ったら、かわいそうだよ。大丈夫。あの子は大きな使命を持って生まれてきたんだよ」夫は優しくいってくれました。  以下「第1章家族とともに」から「第5章未来とともに」までの構成となっています。

娘を育てる中で、たくさんの出会いと気づきをいただき、今、私は光に照らされています。思い悩んだ日々もあるけれど、娘を出産してからの日々を振りかえり、そのときの思いや感じたことを素直に綴りました。

決して悲しい内容の本ではなく、明るく希望がもてる内容です。私は社会のために私自身ができることは何か、模索し続けています。ぜひ、多くの方に読んでいただき、この本が「自分にできることって何だろう」と考えるきっかけになるといいなあと思っています。

 

お友だちでもある瀬戸市在住のイラストレーター華鼓さんが出版社とやり取りをして、表紙も中のイラストも担当してくださいました。本の内容を吟味して、イメージ通りのイラストを描いてくださり、本当に感謝しています。全国の書店、ネットでもご購入いただけますので、ぜひぜひ、たくさんの皆さんに読んでいただき、娘と生活する日々の中で、私が感じた「気づき」を伝えることができたらと思っています。

この深川神社で健やかな成長を願ったあの日から29年。

娘はゆるやかに成長を続け、毎日楽しそうに過ごしています。

できないことはたくさんあるけれど、たくさんの方々に助けていただきながら、娘はゆるやかに成長を続け、毎日楽しそうに過ごしています。神さまのご加護に感謝しながら、家族で「今」を楽しんで生きていきたいと思っています。

 

 

開業120周年を迎えた「せとでん」

2025年12月16日

開業120周年を迎えた「せとでん」

鉄道愛好家 山田 司

名古屋・栄町を起点に、名古屋市北東部~尾張旭市を経て瀬戸市に至る名鉄瀬戸線。瀬戸の陶磁器産業の発展、そして沿線の生活と切り離せない交通機関として成長し、今もかつての「せとでん」という略称が沿線での呼び名として残るこの路線は、1905(明治38)年4月「瀬戸自動鐡道」の開業以来、今年でちょうど120周年を迎えました。また、「お堀電車」としても知られた瀬戸線ですが、名古屋城外堀区間、通称「外濠線」の廃止から来年2月で50周年となります。

 

折しも「せとでん」の誕生120周年と、「外濠線」廃止から50周年を迎える今、その経緯について振り返ってみたいと思います.

【せとでんの始まり】

明治時代中期を過ぎ、瀬戸の陶磁器産業の発展に伴う大量輸送手段の必要性が生じる中、国は中央本線の建設計画を進めていました。現在の同線は長野県塩尻から南下し、多治見から庄内川に沿って名古屋に入りますが、計画段階では他にも瀬戸ルートと小牧ルートの2案がありました。瀬戸の実業家たちは瀬戸ルートの採用を強く要望しましたが山越えが難題、小牧ルートは地元調整の不調でいずれも不採用。しかも、国の計画では設置される駅は春日井の次は千種。次善策として大曽根駅の設置を求めるも、国からは駅設置工事費用の全面負担に加え、瀬戸から大曽根を結ぶ鉄道を敷設することが条件として示されました。

これに応える形で瀬戸と名古屋の実業家が発起人となって設立されたのが「瀬戸自動鐡道」でした。余談ですが、瀬戸には「『汽車が通ると窯が壊れる』と窯屋の大将たちが反対したから中央線が通らなかったのだ」という俗説があります。しかしそれは全くのデマで、当時の地元窯業界の実力者たちは、窯が壊れる心配どころか、鉄道の誘致を国に談判し結局は自力で鉄道を敷くほど熱望していたのでした。

1905(明治38)、瀬戸自動鐡道は取り急ぎ尾張瀬戸~矢田を開業、翌年に矢田から念願の大曽根まで延伸し、瀬戸と大曽根を結ぶという所期の目的を達成しました。開業当初は3両のフランス製の「セルポレー式蒸気動車」で一日4往復の運転でしたが、車両の故障が多発し、複雑な構造で修理も容易ではない蒸気動車に見切りをつけ早々に電車運転への切替えを決定。開業翌年には社名も「瀬戸電気鐡道」に変更し路線を電化して電車運転を開始しました。これが今も略称として残る「せとでん」の語源となっています。当時はまだ全国的にも電気鉄道は数少なく、瀬戸電には開業時から先進的な姿勢があったことがうかがわれます。

【外濠線による堀川への延伸】

瀬戸電は開業後6年目の1911(明治44)年には大曽根からさらに名古屋市内を西へ進んで堀川まで開業し、堀川~尾張瀬戸が全通しましたが、このうち、通称「外濠線」と呼ばれる土居下~堀川の2.2kmは名古屋城外堀の中を軌道敷として利用するという類まれな手法がとられました。

当時、名古屋城の外堀は陸軍の管理下にあり、使用許可は困難と思われたところ、たまたま陸軍の司令部は外堀の本町、演習場は守山にあり、軍にとって利用価値が認められたことが幸いしたと云われています。また、運輸官庁の免許については名古屋市内の路面電車網を補完する位置付けで認められ、堀川延伸で瀬戸電を水運につないで貨物輸送の機能性を高めることが大きな目的であったものの、旅客と貨物、二面の輸送を担うこととなりました。外濠線内には堀川、御園、本町、大津町、久屋、東大手、土居下の7駅がありましたが、廃止まで残ったのは堀川、本町、大津町、土居下の4駅でした。

さて、堀川への延伸ルートとして名古屋城外堀を通すという手法には、実は大きなメリットがあります。まず、用地買収が不要となり準備期間と資金が大幅に省けること。また、本来なら清水から堀川へと進むには熱田台地を南に登り久屋からは西進して堀川へ向かって台地の西端部を下る、というアップダウンを強いられるところ、お堀の底をほぼ平坦に進むことができるなど、いいことづくめの選択であったといえそうです。ただ、久屋ではお堀の角に合わせて線路も「サンチャインカーブ」と呼ばれた90度の急曲線(写真上)を必要とし、陸軍本部前の本町橋だけは複線でくぐれる幅に拡げることが許されなかったため「ガントレット」という狭窄線で単線幅に絞る(他にも2箇所あったが拡幅実施)など、外濠線ならではの苦心の跡も見られました(写真下)。しかし、この外堀は水の流れない空堀だからこそ線路を敷くことができたわけですが、全国にお城や城跡は数多くあれども、このような例は、瀬戸線の他には長野県上田城のお堀を走った上田温泉電軌に見られるのみです。

なお、瀬戸電は、この外壕線敷設免許の申請とほぼ同時期に、熱田方面への延伸をもくろむ「精進川線」という新設路線も申請しています。もし精進川線が実現していたら、瀬戸線は神宮前経由で名古屋駅直通運転も行われていたかもしれません。

この外濠線、堀川での貨物扱いは1965(昭和40)年に終了し、大津町が唯一の通勤通学客輸送の要として残りましたが、栄町乗入れ工事の開始に伴い1976(昭和51)年2月、65年にわたる使命を終えました。

私個人の話ですが、50年前の今頃は受験生の身でありながら、年が明ければ廃止を待つばかりの堀川~土居下へと何度かカメラを提げて足を運んだことを懐かしく思い出します。

【せとでんの今】

瀬戸電気鐵道は1939(昭和14)年に名古屋鉄道と合併、名鉄瀬戸線として生まれ変わり、旅客と貨物の両面輸送で沿線地域を支えてきました。その後、1976(昭和51)年外濠線の廃止、1978(昭和53)年貨物輸送廃止、架線電圧600Vから1500Vへの昇圧、そして開業以来の大事業となった栄町乗入れの実現、さらには1988(昭和63)年の愛知環状鉄道の開業という出来事に加え、沿線の陶磁器工場が次々とマンションに変わるなどの環境変化によって、路線の性格が大きく変わっていくことになりました。

現在の瀬戸線では、かつての地方鉄道線的なイメージは影を潜め、矢田以西の連続立体交差化や喜多山駅高架化、全車ステンレス車体にインバータ制御をもつ瀬戸線専用の新造車両での統一など、まさに都市型路線と称して恥じない姿に変貌しています。数ある名鉄の路線の中でも優良路線的な存在として扱われているといっても過言ではなく、沿線に学校が多いことから、常に若い利用者が多いことも強みです。それでもなお、1939年の名鉄合併から86年となる今でも「せとでん」という愛称が年齢層を問わず使われることも珍しくないなど、瀬戸線は地域や沿線利用者からの愛着が他線にもまして強いことを感じます。それは地元主導で敷いた「おらが鉄道」の血統なのか、また名鉄の路線で唯一の独立線であるせいなのか理由はさておき、瀬戸線がどれだけ近代化しても、いつまでも「せとでん」と呼べる身近な路線であってほしいものです。

今回お話しできなかった、この半世紀に続いた瀬戸線の変革や、瀬戸線を走った車両の移り変わりなどについても、いずれ機会があればお話ししたく思っております。

瀬戸被爆ピアノコンサート ~未来へつむぐ希望のかけ橋~

2025年11月25日

瀬戸被爆ピアノコンサート
~未来へつむぐ希望のかけ橋~

瀬戸市愛知万博20周年記念事業
瀬戸被爆ピアノコンサート実行委員会
代表 山本あさひ

去る2025年9月27日、瀬戸被爆ピアノコンサートを開催致しました。

1945年、広島と長崎に投下された原子爆弾は、多くの尊い命と人々の暮らしを一瞬にして奪いました。その中で、爆風や熱線を受けながらも奇跡的に残ったピアノがあります。これが「被爆ピアノ」です。
広島在住の調律師・矢川光則氏の手によって修復されたこのピアノは、今も全国を旅しながら平和の尊さを伝え続けています。そしてこの瀬戸の地は、この被爆ピアノにとって特別な場所です。20年前、愛・地球博のオープニングイベントで、広島県外で初めて演奏されたのが瀬戸でした。

2025年、戦後80年、そして愛・地球博20周年という節目の年に、再び瀬戸で被爆ピアノの音色を響かせることができました。コンサートは瀬戸信用金庫エンゼルホールで開催され、会場には約250名の来場者が訪れました。
今回のコンサートでは、瀬戸市および近隣地域の子どもたちがジブリ作品を中心にピアノ演奏を披露し、プロの演奏家や歌手の皆さまと共に平和への祈りを音に託しました。子どもたちの澄んだ音色と真っすぐな歌声には、未来への希望が宿っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸市は平成30年に「平和都市宣言」をして、平和への願いを地域全体で発信するまちとして歩みを進めています。焼きもののまち瀬戸は、古くから自然と共に生き、祈りや感謝と共に文化を育んできた土地です。ものづくりの心と祈りの心が今も息づいています。
戦後80年の今年、子どもたちが戦争体験者の話を直接聞く機会は少なくなりました。けれども、被爆ピアノは「音」で戦争と平和を語り継ぐ存在です。その音色は、言葉では語り尽くせない“いのちの記憶”を伝え、今を生きる私たちに平和の尊さを問いかけてくれます。

私たち瀬戸被爆ピアノコンサート実行委員会は、次世代の日本を担う子どもたち・若者たちが、1年に1回でも戦争で亡くなられた方々を追悼し、唯一の戦争被爆国である日本人として世界平和をリードする若者へと成長してほしいと願い、「平和の種まき活動」を継続的に行います。 これからも瀬戸の地から、被爆ピアノを通じて「未来へ紡ぐ希望のかけ橋」となる活動を続けてまいります。子どもたちが平和の尊さと郷土への誇りを胸に、世界へ羽ばたく未来を願って。

瀬戸から広がるこの祈りの音が、やがて世界へと届き、愛と平和の輪が幾重にも広がっていきますように。

最後に、地域の皆さま、そして深川神社様をはじめとする多くの方々のお力添えがあり、無事に開催することができましたこと、心より感謝申し上げます。

 

神前に額づく

2025年06月19日

改めましてご当地ヒーローでまちおこしの会、新代表・横川結城です。

瀬戸市を守るご当地ヒーロー陶神オリバーは多くの人に支えられ10年以上活動を続けられておりまして、私自身様々な苦労や喜びの中で進み続ける陶神オリバーの背中を追いかける毎日です。色んな経験をする中でも特に毎年印象深いのが、深川神社にて行われる御祈祷になります。

藤四郎様が奉られている陶彦社にて会のメンバーと共に受ける御祈祷はなんとも言えない神聖な空間で、そこにはオリバーの武器であるスレッジャーブレイド、そしてマスクが置かれ、我々と共に御祈祷を受けます。今年も4月8日に執り行っていただきました。

昨年一年、無事に活動をすることができたことを感謝申し上げ、この一年も、我々はもとより、オリバーに会いに来てくださる全ての皆さんも、安全に楽しく過ごせますようにと玉串に気持ちを込め捧げました。

陶神オリバーは陶祖神 加藤四郎左衛門景正様のお力をお借りし戦うヒーローですので、この御祈祷によりさらに力を頂いて活動をしていくことができます。

少しずつ根付いてきた瀬戸市にいるヒーロー、800年以上瀬戸市の平和を守ってきた陶製狛犬という大先輩に見守られながら陶神オリバーも活動していきたいと強く思わせて頂ける機会に巡り会えたことに感謝いたします。

吊るし雛に願いを込めて

2025年02月13日

吊るし雛に願いを込めて

弥生の会

代表 若杉スエ

「弥生の会」は、古着の着物を使って小物作りを行っている市民活動グループです。

2005年開催の愛知万博を契機に活動したおもてなしボランティア仲間から、手芸好きが集まったのが始まりで、20年近く活動を続けています。

使わなくなった着物の美しい柄や色とりどりの古布を活かして、リメイクしています。

活動日には、会の皆さんと小物作りの事などを話したり、食事をしたり、楽しみながら季節に合った「吊るし雛」や「干支」などの小物作りを行っています。

その中でも、様々な小さな人形をたくさん吊るして作った長~い「吊るし雛」は、「陶のまち瀬戸のお雛めぐり」に登場する大きなひな壇“ひなミッド”と合わせて、毎年、瀬戸蔵のアトリウムに飾っていただいております。

「吊るし雛」は、江戸時代から始まったとされており、生まれてきた子どもの幸せを願い、お母さんやおばあちゃん、叔母さんから近所の方たちまで、みんなで少しずつ小さな人形を作り、持ち寄って作られていたようです。みんなの想いをいっぱい詰め込み、子どもの大事なお守りとして大切にされてきたのが「吊るし雛」です。

小さな人形は、形も様々で縁起の良い意味や云われがあります。

昔から「這えば立て立てば歩めの親心」と言いますが、子ども達が「衣食住に困らないように」と、私たちも、小さな人形に1つ1つ親が子を想う願いを込めて、チクチクと丁寧に作っています。

今年は、深川神社にも飾ることができ、会員一同、大変な名誉であると、心から喜んでおります。2025年3月9日(日)まで飾ってありますので、お参りの折には、ぜひ吊るし雛も見ていただきたく思っております。

陶彦社創建200年記念 御物作陶~インスタレーション・空間的芸術~

2024年12月07日

第63回せと陶祖まつり

陶彦社創建200年記念 御物作陶~インスタレーション・空間的芸術~

令和6年4月21日(日)に、陶祖 藤四郎(加藤四郎左衛門景正)の遺徳を偲ぶお祭りとして開催した「第63回せと陶祖まつり」において、本年は特別に「陶彦社創建200年記念御物作陶~インスタレーション・空間的芸術~」を実施し、陶祖 藤四郎の末裔となる第31世 加藤唐三郎氏が、陶彦社拝殿にて御物の作陶を行い、その後焼成して、御物「黄瀬戸線文鉢」が完成しました。

同年6月12日(水)には、陶祖 藤四郎を祀る陶彦社において、製作者の加藤唐三郎氏と大せともの祭協賛会役員・関係者らが陶祖 藤四郎の偉業を称えるとともに、感謝の意を込め陶物奉納を執り行いました。

【陶彦社】

陶彦社は、深川神社の末社として、文政7(1824)年に、瀬戸の陶祖である加藤四郎左衛門景正を祀るために創建され、現在の社殿は大正15(1926)年に建てられたものです。

本殿は一間社流造建造物で、梁間三間、桁行三間の入母屋造の拝殿と連絡する建物として幣殿が建てられています。これらの中心的な社殿は、伝統的な神社建築でありながら、蟇股や木鼻などの細部意匠に西洋の意匠を取り込み、当時京都を中心に活躍した亀岡末吉の建築意匠「亀岡式」にならったものと考えられ、斬新で洗練された建築美が特徴的であり、瀬戸市域はもとより周辺地域にも類例をみない貴重な近代和風建築です。これらの建物を取り囲んで同時期に建てられた築地塀も緑釉の織部瓦を用いたもので、本殿・拝殿の前に鎮座する2対の陶製狛犬ほかとともに指定文化財となっています。

【第31世 加藤唐三郎】

加藤唐三郎氏の祖先は、道元とともに中国の宋に渡り、陶器の製法を学び、日本に帰国後、瀬戸に窯を築いた、陶祖 藤四郎(加藤四郎左衛門景正)となります。

陶祖・藤四郎(景正)から19代の景貞の時、徳川家康公の名により赤津にて家康公並びに尾張徳川家の御用を勤めることとなり、名前をこの時に「唐三郎」と改めて、苗字帯刀を許され、年貢や諸役も免除されました。

現在の第31世 加藤唐三郎氏は、1948年に瀬戸市に生まれ、高校を卒業後に作陶活動に入り、先代の下で伝統的な技術を学び、1978年には「日本伝統工芸展」に初入選するとともに、以後も入選を重ねています。1991年に「第31世 加藤唐三郎」を襲名し、2008年には、瀬戸市無形文化財「御深井」技法で保持者に認定され、現在は日本工芸会の正会員などの役職を務めるなど、伝統工芸界では瀬戸地域を代表する作家であり、後輩の育成や陶芸文化の向上にも尽力しています。

瀬戸歳時記5

2024年10月03日

瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]開館
瀬戸本業窯
八代後継 水野雄介

愛知県瀬戸市は、「せともの」という言葉の由来にもなった、日本で最も古くからやきものの表面にガラス状の釉薬をかけたやきものを本格的に製品にした土地です。
私たちが工房を構える瀬戸市洞地区は江戸時代後期に薪を燃料とする登り窯が立ち並び、陶器を作る窯と工房の一体を総称して「本業窯」と呼び、暮らしに必要な壺、甕、鉢、皿をつくり続けていました。(瀬戸では元来から作られてきた陶器を「本業」、新しくはじまった磁器を「新製」と呼んできました。)私たちの窯の名前「本業窯」は、それらから由来しています。また、約250年の間、現在もほぼ昔のままの製法で、ひとつ一つ手仕事で作っています。
本業窯の歴史の中で分岐点となったのは6代半次郎の時代。日本経済は大きく発展し、ものづくりの現場では効率や利益をもとめ機械化が進み、本業窯にとっては苦しい時期でもありました。しかし、柳宗悦の指導のもと、濱田庄司とバーナード・リーチが本業窯を訪れ、私たちの仕事を高く評価していただき、それが大きな励みとなりました。

『瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]』
今回、私たちはかつて荷造りや薪の乾燥庫として使用していた築約70年の建物を改装し、瀬戸のものづくりの歴史や背景を見やすく展示した施設を開館しようと約5年前に計画が立ち上がりました。瀬戸のものづくりはさまざまなものがあり、時代に合わせ求められるやきものを作ってきました。現在でも、食器はもちろんのことノベルティ、建築陶材、碍子、ファインセラミックスなどが生産されています。
その中で私たちは歴史を振り返りながら、本業窯が誕生する江戸時代、あるいはそれ以前から続く、瀬戸のものづくりの原点に近い仕事を続けてきました。
私たちの役割は、先人たちより受け継がれてきたものづくりの文化と合わせ、人をつなぎ、その背景にあるうつわと共にあった瀬戸の「暮らし」を伝えていくことだと考えています。新しいミュージアムはそれらを体現できる場所となるよう、そして瀬戸の魅力を再認識していただけるような、小さくも新しい試みのミュージアムをめざします。

『民藝館を開きたい』
これは、6代半次郎の成し得なかった夢でした。瀬戸のやきものはもちろん、日本各地の工芸品を愛し、身の周りに置き楽しみながら暮らしていました。あれから時が経ち、実際に動くきっかけとなったのは、もう20年ほど前のこと。初めは建物の老朽化問題でした。屋根の老朽化により水が漏れることから工事の見積もりをとったところ数百万円かかるとのこと。ただ水漏れを直すだけのために、大金を費やすことを躊躇し、足踏み状態になっていました。
さらに近年はオーバーツーリズムにより仕事時間の確保が難しくなり、これはもう前に進むしかないと決意を固め、2021年5月にクラウドファンディングを実施し、326名の方から約540万円のご支援をいただきました。そのほか市からの助成金と自己資金により一年半の改修と準備を経て2022年5月21日に無事開館が叶いました。今後はこれまで以上に瀬戸の魅力を伝えるため皆様のご意見もいただきながらこの場所を育てていけたらと思っております。まだ洞へお越しいただいたことがない皆様にはこれを機に是非ご来館いただけますと幸いです。

https://www.setomingeikan-museum.jp

瀬戸歳時記4

2024年10月03日

「幻の陶祖碑」を探し求めて

元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
瀬戸公園(陶祖公園)には、慶応3年(1867)に完成した「六角陶碑」(陶祖碑)があります。この六角陶碑より80年も前に建碑計画があったことは、昭和12年(1937)発行の寺内信一著 『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』によって知られています。その内容は、
安永(1772-81)頃に至り御窯師の役を奉ず、これを春暁という。(略)春暁慷慨(こうがい)の志あり。陶祖の伝記世に湮滅(いんめつ)せん事をおもんばかり、つとに陶碑を建てんと志し、名古屋の千村諸成等にその伝を作らしめ、着手するに先立ち歿す。(略)
というものです。ここに登場する「春暁」は陶祖嫡流家の窯屋武右衛門のことで、当時瀬戸村の庄屋をつとめていました。加藤唐左衛門の「陶器古伝記」によると、「安永拾年巳正月七日(4月2日天明と改元) 武右衛門代繁吉」と記されることから、このころ春暁の身体に何かがあったことを暗示しています。また「千村諸成」は尾張藩士で、余暇には陶器を制作し、瀬戸で焼かせたとされる人物であります。文中に「着手するに先立ち歿す」とありますが、この記述では春暁が没した後、着手されたのかどうか判然としません。
そうしたなか、これを明らかにする興味深い「書簡」が確認できたのです。それは尾張藩士内藤東甫から、やはり藩士の大坂天満屋敷奉行中西与一右衛門宛に出されたものであります。内藤東甫は500石の藩士で 『張州雑志』の編纂者であり、絵画と雅事にすぐれていたされます。一方、中西与一右衛門は大坂で藩の資金調達を担当、御扶持30人で尾張藩に召し抱えられています。かれは柳沢淇園、高芙蓉、池大雅などと交遊した文人でもありました。ほかにも同様の書簡が複数残されており、その内容からは東甫と与一右衛門との交流の深さが垣間見えます。人物紹介はさておき、一部分ではありますが書簡の内容をみてみましょう。
当国瀬戸村藤四郎は陶器に名ある者にてご座候。当年五百五十年の由、藤四郎が末孫春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。この後詩歌等を集め申し候て、集を出し申したく願い申し候。 (略)
書簡は10月15日付けのもので、ここに記される「当年」とは、同書簡の別の項に「来る廿五日、府下極楽寺において書画会致し候筈」という文言があり、書画会(「春興余事」)が安永9年(1780)10月25日に開催されていることから、「安永9年」であることがわかります。さらに陶祖伝記によると、藤四郎は貞応2年(1223)に道元禅師に従って中国にわたり、焼物の技法を学んで帰国、その後製陶に適した土を求めて全国をめぐり、ついに瀬戸の祖母懐で良土を発見して窯を開いたというものですが、春暁はこの開窯年を「当年五百五十年」、すなわち安永9年から遡ること550年の寛喜2年(1230)と考えていたことが読み取れます。
さて本題の陶祖碑建立ですが、文中に「春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。」とあることから、安永9年に春暁によって焼物でつくられた藤四郎碑が建てられ、そこには碑銘などもできていたことがわかります。ちなみに、春暁は2年前の同7年(1778)春に、天中和尚ゆかりの神蔵寺(名古屋市名東区)に陶製の戒壇石を奉納しています。『民吉街道』には加藤庄三氏のスケッチが載せられており、先のとがった高さ1メートルの四角柱で、「界内禁葷酒」の文字が刻まれていたことがわかります。陶祖碑がどんな形で、どこに建てられたかはわかりませんが、どうやら瀬戸公園の六角陶碑よりも80年も前に陶祖碑が建立されたのは確かなようであります。どうにかして、この陶祖碑を探し当てたいものです。

さらに陶祖碑とは別に、記念の詩歌集も計画されていたことがわかります。時代は下った明治13年に刊行された 『尾張名所図会 後編』には、藤四郎の絵と賛が載せられています。前出の内藤東甫が藤四郎の作陶風景の画を、人見?が藤四郎の伝記と褒め言葉を書いています。この人見?は尾張藩の国用人で国奉行を兼帯し、九代藩主宗睦の絶大な信頼のもと、藩の天明・寛政の改革を主導した人物であります。人見?が書き記した『人見?文艸』にも、同一の文言による「春慶(藤四郎のこと)伝」がおさめられています。安永8年9月15日の日付からすると、もしかすると計画されていた詩歌集に載せるつもりの作品であったのかもしれません。

『尾張名所図絵』

主な参考図書:『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』・『愛知県史 資料編20』・『民吉街道』

瀬戸歳時記3

2024年10月03日

古文書鑑賞で「民吉の活躍した世界」を追体験

元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
磁祖と崇められる加藤民吉は、江戸時代後期の明和9年(1772)2月20日に瀬戸村で生まれました。今年は民吉が生まれてから250年という節目の年にあたります。瀬戸市美術館で、これを記念した特別展「加藤民吉の真実 -天草における九州修業-」が開催されています。
令和2年(2020)から始まった民吉生誕250年プレ事業の「初期瀬戸染付の謎」展、令和3年の「川本治兵衛」展のような染付作品の展示とは異なり、今回は文献資料が中心となっています。これまでの美術品の鑑賞とは、趣がおおきく異なることに気づくことでしょう。
今日までに刊行された『瀬戸市史陶磁史篇三 -瀬戸の染付焼-』や、郷土史研究家で市史編纂委員でもあった加藤庄三著・加藤正高編の『民吉街道』は、まさに今回展示されている文献資料などによって成り立っているのです。こうした古文書や書簡・日記などに出会うことにより、「民吉の活躍した世界」に身を置いてみるのもおもしろい体験と思います。
ここでは、民吉に出会える基本的な史料3点を紹介いたします。

「陶器古伝記写」(「染付焼物御発端之事」は民吉父子が磁器の試し焼きに成功した時代)
瀬戸村の庄屋で窯元取締役であった加藤唐左衛門によって記されたものの写しです。寛政から天保年間(1789-1844)に至る、窯屋に関する出来事が詳細に記録されています。染付焼の開発から御蔵会所の取りたて、染付焼流通における掟、染付焼転職窯屋人別町など、初期染付焼がどのように展開されていったか知るうえで基本的な史料となっています。
なかでも「染付焼物御発端之事」は、染付磁器の試作に成功した経緯が記されています。享和元年(1801)3月に熱田前新田が築かれたのをうけ、民吉は父の吉左衛門とともに百姓を希望し入植しました。開墾に従事していたところ、不調法な姿が熱田奉行津金文左衛門の目に留まります。文左衛門は屋敷に呼んで窯職に精を出すなら、南京焼の製法を伝授すると民吉父子に伝えました。すると、彼らは大いに喜び、あれこれ指図を受けながら染付焼の開発に取り組みます。同年9月には小さな製品ながらも、南京焼と紛らわしいほどの染付焼を焼くことに成功したというものです。

「陶器古伝記写」・「染付焼物御発端之事」
(瀬戸蔵ミュージアム蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

「染付焼起原」(民吉が九州天草・肥前で修業した時代)
文化元年(1804)2月22日、磁器製造技法の習得の使命を担った民吉は、同郷(菱野村)出身の東向寺天中和尚を頼り九州天草へ渡ります。高浜皿山での修業を手始めに肥前へと渡り修業に専念します。同4年(1807)6月18日、磁器製法のさまざまな技術を学び帰郷します。この九州修業の一部始終を記したものが「染付焼起原」(そめつけやききげん)です。これは、深川神社十五代二宮守恒(もりつね)が文政元年(1818)11月に民吉の口述を記録したものです。民吉の九州修業の様子が手に取るようにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(民吉が天草で修業した時代)
東向寺天中和尚の紹介で、民吉は高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)を訪れます。このときの天中和尚から宜珍に宛てられた書状が残されています。宜珍は源作とも呼ばれ、父の庄屋職を世襲するとともに窯職も引き継いでいます。天草は磁器の原料となる陶石の産地であり、この地で産する「天草陶石」はわが国最良の磁器原料として知られています。民吉は宜珍の経営する高浜窯で働くことになります。宜珍は詳細に日記を記しており、民吉のここでの修業の姿をうかがい知ることができます。「染付焼起原」の内容を裏付けるもので、今回瀬戸で初めて公開されています。天草における民吉の様子がつぶさにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(上田資 料館蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

本展覧会は、9月11日(日)まで開催されていますが、詳しくは瀬戸市美術館のホームページを確認ください。

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