深川神社

瀬戸歳時記

瀬戸歳時記5

2024年10月03日

瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]開館
瀬戸本業窯
八代後継 水野雄介

愛知県瀬戸市は、「せともの」という言葉の由来にもなった、日本で最も古くからやきものの表面にガラス状の釉薬をかけたやきものを本格的に製品にした土地です。
私たちが工房を構える瀬戸市洞地区は江戸時代後期に薪を燃料とする登り窯が立ち並び、陶器を作る窯と工房の一体を総称して「本業窯」と呼び、暮らしに必要な壺、甕、鉢、皿をつくり続けていました。(瀬戸では元来から作られてきた陶器を「本業」、新しくはじまった磁器を「新製」と呼んできました。)私たちの窯の名前「本業窯」は、それらから由来しています。また、約250年の間、現在もほぼ昔のままの製法で、ひとつ一つ手仕事で作っています。
本業窯の歴史の中で分岐点となったのは6代半次郎の時代。日本経済は大きく発展し、ものづくりの現場では効率や利益をもとめ機械化が進み、本業窯にとっては苦しい時期でもありました。しかし、柳宗悦の指導のもと、濱田庄司とバーナード・リーチが本業窯を訪れ、私たちの仕事を高く評価していただき、それが大きな励みとなりました。

『瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム[瀬戸民藝館]』
今回、私たちはかつて荷造りや薪の乾燥庫として使用していた築約70年の建物を改装し、瀬戸のものづくりの歴史や背景を見やすく展示した施設を開館しようと約5年前に計画が立ち上がりました。瀬戸のものづくりはさまざまなものがあり、時代に合わせ求められるやきものを作ってきました。現在でも、食器はもちろんのことノベルティ、建築陶材、碍子、ファインセラミックスなどが生産されています。
その中で私たちは歴史を振り返りながら、本業窯が誕生する江戸時代、あるいはそれ以前から続く、瀬戸のものづくりの原点に近い仕事を続けてきました。
私たちの役割は、先人たちより受け継がれてきたものづくりの文化と合わせ、人をつなぎ、その背景にあるうつわと共にあった瀬戸の「暮らし」を伝えていくことだと考えています。新しいミュージアムはそれらを体現できる場所となるよう、そして瀬戸の魅力を再認識していただけるような、小さくも新しい試みのミュージアムをめざします。

『民藝館を開きたい』
これは、6代半次郎の成し得なかった夢でした。瀬戸のやきものはもちろん、日本各地の工芸品を愛し、身の周りに置き楽しみながら暮らしていました。あれから時が経ち、実際に動くきっかけとなったのは、もう20年ほど前のこと。初めは建物の老朽化問題でした。屋根の老朽化により水が漏れることから工事の見積もりをとったところ数百万円かかるとのこと。ただ水漏れを直すだけのために、大金を費やすことを躊躇し、足踏み状態になっていました。
さらに近年はオーバーツーリズムにより仕事時間の確保が難しくなり、これはもう前に進むしかないと決意を固め、2021年5月にクラウドファンディングを実施し、326名の方から約540万円のご支援をいただきました。そのほか市からの助成金と自己資金により一年半の改修と準備を経て2022年5月21日に無事開館が叶いました。今後はこれまで以上に瀬戸の魅力を伝えるため皆様のご意見もいただきながらこの場所を育てていけたらと思っております。まだ洞へお越しいただいたことがない皆様にはこれを機に是非ご来館いただけますと幸いです。

https://www.setomingeikan-museum.jp

瀬戸歳時記4

2024年10月03日

「幻の陶祖碑」を探し求めて

元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
瀬戸公園(陶祖公園)には、慶応3年(1867)に完成した「六角陶碑」(陶祖碑)があります。この六角陶碑より80年も前に建碑計画があったことは、昭和12年(1937)発行の寺内信一著 『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』によって知られています。その内容は、
安永(1772-81)頃に至り御窯師の役を奉ず、これを春暁という。(略)春暁慷慨(こうがい)の志あり。陶祖の伝記世に湮滅(いんめつ)せん事をおもんばかり、つとに陶碑を建てんと志し、名古屋の千村諸成等にその伝を作らしめ、着手するに先立ち歿す。(略)
というものです。ここに登場する「春暁」は陶祖嫡流家の窯屋武右衛門のことで、当時瀬戸村の庄屋をつとめていました。加藤唐左衛門の「陶器古伝記」によると、「安永拾年巳正月七日(4月2日天明と改元) 武右衛門代繁吉」と記されることから、このころ春暁の身体に何かがあったことを暗示しています。また「千村諸成」は尾張藩士で、余暇には陶器を制作し、瀬戸で焼かせたとされる人物であります。文中に「着手するに先立ち歿す」とありますが、この記述では春暁が没した後、着手されたのかどうか判然としません。
そうしたなか、これを明らかにする興味深い「書簡」が確認できたのです。それは尾張藩士内藤東甫から、やはり藩士の大坂天満屋敷奉行中西与一右衛門宛に出されたものであります。内藤東甫は500石の藩士で 『張州雑志』の編纂者であり、絵画と雅事にすぐれていたされます。一方、中西与一右衛門は大坂で藩の資金調達を担当、御扶持30人で尾張藩に召し抱えられています。かれは柳沢淇園、高芙蓉、池大雅などと交遊した文人でもありました。ほかにも同様の書簡が複数残されており、その内容からは東甫と与一右衛門との交流の深さが垣間見えます。人物紹介はさておき、一部分ではありますが書簡の内容をみてみましょう。
当国瀬戸村藤四郎は陶器に名ある者にてご座候。当年五百五十年の由、藤四郎が末孫春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。この後詩歌等を集め申し候て、集を出し申したく願い申し候。 (略)
書簡は10月15日付けのもので、ここに記される「当年」とは、同書簡の別の項に「来る廿五日、府下極楽寺において書画会致し候筈」という文言があり、書画会(「春興余事」)が安永9年(1780)10月25日に開催されていることから、「安永9年」であることがわかります。さらに陶祖伝記によると、藤四郎は貞応2年(1223)に道元禅師に従って中国にわたり、焼物の技法を学んで帰国、その後製陶に適した土を求めて全国をめぐり、ついに瀬戸の祖母懐で良土を発見して窯を開いたというものですが、春暁はこの開窯年を「当年五百五十年」、すなわち安永9年から遡ること550年の寛喜2年(1230)と考えていたことが読み取れます。
さて本題の陶祖碑建立ですが、文中に「春暁と申す者焼物の碑を建て申し候。碑銘等も出来申し候。」とあることから、安永9年に春暁によって焼物でつくられた藤四郎碑が建てられ、そこには碑銘などもできていたことがわかります。ちなみに、春暁は2年前の同7年(1778)春に、天中和尚ゆかりの神蔵寺(名古屋市名東区)に陶製の戒壇石を奉納しています。『民吉街道』には加藤庄三氏のスケッチが載せられており、先のとがった高さ1メートルの四角柱で、「界内禁葷酒」の文字が刻まれていたことがわかります。陶祖碑がどんな形で、どこに建てられたかはわかりませんが、どうやら瀬戸公園の六角陶碑よりも80年も前に陶祖碑が建立されたのは確かなようであります。どうにかして、この陶祖碑を探し当てたいものです。

さらに陶祖碑とは別に、記念の詩歌集も計画されていたことがわかります。時代は下った明治13年に刊行された 『尾張名所図会 後編』には、藤四郎の絵と賛が載せられています。前出の内藤東甫が藤四郎の作陶風景の画を、人見?が藤四郎の伝記と褒め言葉を書いています。この人見?は尾張藩の国用人で国奉行を兼帯し、九代藩主宗睦の絶大な信頼のもと、藩の天明・寛政の改革を主導した人物であります。人見?が書き記した『人見?文艸』にも、同一の文言による「春慶(藤四郎のこと)伝」がおさめられています。安永8年9月15日の日付からすると、もしかすると計画されていた詩歌集に載せるつもりの作品であったのかもしれません。

『尾張名所図絵』

主な参考図書:『尾張瀬戸・常滑陶瓷誌』・『愛知県史 資料編20』・『民吉街道』

瀬戸歳時記3

2024年10月03日

古文書鑑賞で「民吉の活躍した世界」を追体験

元瀬戸市文化振興財団常務理事 谷口雅夫
磁祖と崇められる加藤民吉は、江戸時代後期の明和9年(1772)2月20日に瀬戸村で生まれました。今年は民吉が生まれてから250年という節目の年にあたります。瀬戸市美術館で、これを記念した特別展「加藤民吉の真実 -天草における九州修業-」が開催されています。
令和2年(2020)から始まった民吉生誕250年プレ事業の「初期瀬戸染付の謎」展、令和3年の「川本治兵衛」展のような染付作品の展示とは異なり、今回は文献資料が中心となっています。これまでの美術品の鑑賞とは、趣がおおきく異なることに気づくことでしょう。
今日までに刊行された『瀬戸市史陶磁史篇三 -瀬戸の染付焼-』や、郷土史研究家で市史編纂委員でもあった加藤庄三著・加藤正高編の『民吉街道』は、まさに今回展示されている文献資料などによって成り立っているのです。こうした古文書や書簡・日記などに出会うことにより、「民吉の活躍した世界」に身を置いてみるのもおもしろい体験と思います。
ここでは、民吉に出会える基本的な史料3点を紹介いたします。

「陶器古伝記写」(「染付焼物御発端之事」は民吉父子が磁器の試し焼きに成功した時代)
瀬戸村の庄屋で窯元取締役であった加藤唐左衛門によって記されたものの写しです。寛政から天保年間(1789-1844)に至る、窯屋に関する出来事が詳細に記録されています。染付焼の開発から御蔵会所の取りたて、染付焼流通における掟、染付焼転職窯屋人別町など、初期染付焼がどのように展開されていったか知るうえで基本的な史料となっています。
なかでも「染付焼物御発端之事」は、染付磁器の試作に成功した経緯が記されています。享和元年(1801)3月に熱田前新田が築かれたのをうけ、民吉は父の吉左衛門とともに百姓を希望し入植しました。開墾に従事していたところ、不調法な姿が熱田奉行津金文左衛門の目に留まります。文左衛門は屋敷に呼んで窯職に精を出すなら、南京焼の製法を伝授すると民吉父子に伝えました。すると、彼らは大いに喜び、あれこれ指図を受けながら染付焼の開発に取り組みます。同年9月には小さな製品ながらも、南京焼と紛らわしいほどの染付焼を焼くことに成功したというものです。

「陶器古伝記写」・「染付焼物御発端之事」
(瀬戸蔵ミュージアム蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

「染付焼起原」(民吉が九州天草・肥前で修業した時代)
文化元年(1804)2月22日、磁器製造技法の習得の使命を担った民吉は、同郷(菱野村)出身の東向寺天中和尚を頼り九州天草へ渡ります。高浜皿山での修業を手始めに肥前へと渡り修業に専念します。同4年(1807)6月18日、磁器製法のさまざまな技術を学び帰郷します。この九州修業の一部始終を記したものが「染付焼起原」(そめつけやききげん)です。これは、深川神社十五代二宮守恒(もりつね)が文政元年(1818)11月に民吉の口述を記録したものです。民吉の九州修業の様子が手に取るようにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(民吉が天草で修業した時代)
東向寺天中和尚の紹介で、民吉は高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)を訪れます。このときの天中和尚から宜珍に宛てられた書状が残されています。宜珍は源作とも呼ばれ、父の庄屋職を世襲するとともに窯職も引き継いでいます。天草は磁器の原料となる陶石の産地であり、この地で産する「天草陶石」はわが国最良の磁器原料として知られています。民吉は宜珍の経営する高浜窯で働くことになります。宜珍は詳細に日記を記しており、民吉のここでの修業の姿をうかがい知ることができます。「染付焼起原」の内容を裏付けるもので、今回瀬戸で初めて公開されています。天草における民吉の様子がつぶさにわかる貴重な史料となっています。

「上田宜珍日記」(上田資 料館蔵)
写真:瀬戸市美術館提供

本展覧会は、9月11日(日)まで開催されていますが、詳しくは瀬戸市美術館のホームページを確認ください。

瀬戸歳時記2

2024年10月03日

御本殿と立川流彫刻

伊藤平左エ門建築事務所 望月 義伸

社の正面が拝殿、その奥に幣殿、渡殿とつづき、御祭神の鎮座される本殿がある。本殿は、切妻屋根の正面側が長く伸びやかな 流れ造り と呼ばれる様式。屋根は銅板葺(当初は、柿板葺)、木材は欅(ケヤキ)造り。各所に彫刻がほどこされ、その美しさに心打たれる。ただ目立つだけの彫刻ではなく、建築全体と彫刻とが調和して、晴れやかで清々しくもある。
社殿は、慶長元年(1596)に森からの出火で焼失し再建。その後4回の遷宮を経て、今の本殿が文政6年(1823)に上棟。その上棟式に用いた槌が現存しており、銘には
「深川大神再建造立巧匠 信州上諏訪 立川内匠冨昌(花押)」
「維時文政六年癸未十二月二日吉祥日」
とあり、諏訪の名匠 立川和四郎冨昌(1744~1804)41歳の作であることが判る。

冨昌は、立川流と称される二代目。
父で初代の和四郎冨棟(1744~1807)は、代々の桶職を継ぐことなく、江戸にて宮大工の立川小兵衛富房<注1>の弟子となる。
立川(たてかわ)姓を許され諏訪に戻るが、再度、宮彫師の弟子となり独立する。諏訪大社の秋宮を建築。春宮を建てた大隈流の名匠 村田長左衛門<注2>との腕比べで名声を得る。

江戸時代の建築で最も称賛されたものに、日光東照宮の左甚五郎の彫刻がある。
幕末に至り、富棟に始まる立川流に代表される、彩色をしない素木での力強く迫力のある彫刻により、再び大きく開花する。その中でも、初代を凌ぐ技量で、卓越した彫刻の建築や山車を作り、もっとも完成度を高めたのが冨昌である。
春日井の内々神社造営中の文化4年に初代冨棟が没する。内々神社の竣工後の文化年間には、おそらく深川神社本殿の仕事を冨昌が進めていたと考えられるが、上棟するのに、豊川稲荷の造営後の文政6年までかかっている。

あらためて、本殿の彫刻をみると、私見ではあるが、力強い技量に満ちた彫刻の中に他の作品にはない 間というか、静を感じる。勝手な想像であるが、冨昌が瀬戸を訪れ、燃え盛る火で出来る陶芸の美にふれ、厳しいものを内に秘め美しくも静かな茶の世界を感じたのではないか。
江戸を中心とした化政文化は、庶民の芸術である浮世絵に象徴される粋でビジュアルな文化であり、冨昌も彫刻で新境地を開いた文化人でもある。
冨昌は、絵はもちろんのこと、作陶もする茶人でもあったと伝わる。彫刻にも「さび」の世界を瀬戸で試みたとすれば、それも新境地といえないか?

本殿の竣工後、冨昌は半田亀崎神社などの山車、立川三代にわたり力を注いだ静岡浅間神社の復興、京都御所の門の彫刻などの名作を造るが、安政3年に塩尻の永福寺境内の大木(欅)の伐採中に倒木にて亡くなる。享年74歳 木に魂を刻み続けた棟梁が、木に命を刻んだ瞬間であった。
その後も立川流は息子の三代和四郎富重(1815~1872)と続くが、宮大工としての立川流は四代にて終焉する。しかし、冨昌ら立川一門の仕事は、弟子やその子孫にと伝わり、幕末からの明治へと東海地方にも大きな影響を与える。そして、立川流の作品に感銘した多くの彫物師が活躍してゆく。

<注>
※1 立川小兵衛富房 安永3年(1774)没
江戸立川流の初代 大隈流(平内大隈守の流派)に学び、住んでいた地名より立川を称す著書に規矩術書の「軒廻捶雛形」、絵様集の「大和絵様集」がある

※2 村田(柴宮)長左衛門矩重 延享4年(1747)生
諏訪の大工棟梁 兄は、藩の作事方大工 伊藤儀左衛門
冨棟とは同世代で、諏訪大神の秋宮で彫刻などの高い技量を競って春宮を建築
諏訪周辺に作品を残す

<参考資料> 信濃毎日新聞1977年版 時代を駆ける「大隈流と立川流」他

瀬戸歳時記1

2024年10月03日

子供将棋大会開催に寄せて
藤井裕子

息子・聡太は平成28年10月に幼少の頃からの夢であったプロ棋士になりました。
以来、瀬戸の方々にはいろいろな形での応援をいただき、心より感謝しています。
棋士にとって対局を楽しみにしてくださるファンの方々の支えはとても大切なものです。
この原稿のご依頼いただいたのは、6月中旬で聡太が23連勝を決めたころです。息子の身辺が慌ただしくなっていましたし、インターネット上での掲載であるので、どうしたものか迷いましたが、瀬戸で将棋が盛んになる一助となればと思いお引き受けすることにしました。

とはいうものの、実際に書くとなるとなかなか筆が進まず、聡太に詰将棋を作って貰って載せたらどうかと思ったのですが、立場的に難しいと断られました。プロとしての自覚がしっかりあると逆に思い知らされました。
ここで少し幼少の頃の写真を紹介します。

岡崎での将棋大会。小学2年の時に低学年の部で優勝しました。前年も同じ大会にでたのですが途中で負けてしまい悔しがっていました。将棋大会は毎年同じ時期、同じ場所で開催される事が多く、同じ大会にでると成長したのがよくわかります。

指導対局について
トヨタふれあい将棋フェスティバルでの指導対局の様子。今回、瀬戸こども将棋大会でもプロの先生の指導対局があります。プロから的確なアドバイスが貰えたりするので、強くなるチャンスです。

さて、8月26日にこの瀬戸で子供将棋大会が開催されます。
この記念すべき第1回目の将棋大会が、第2回、第3回・・・と続いていくことで将棋に興味を持ち、好きになる方が増えてくださるでしょう。そうなれば、とても嬉しいことです。また将棋ファンのみならず、この大会からプロ棋士がたくさん生まれるかもしれません。焼き物の街としての歴史を持つ瀬戸が、もう一つ将棋の街としてもしられるようになる・・・夢がどんどん広がります。
将棋の話や駒あそびなど、参加者でなくても楽しめそうです。この記念すべき大会に多くの子供さんが参加され、盛大に行われることを心から願っております。

第1回瀬戸こども将棋大会
日時:平成29年8月26日(土) 受付12時 開始13時
場所:瀬戸市文化センター 文化交流館31会議室
参加対象:小学生以下
申込み:8月18日まで

▲ ページの先頭へ