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開業120周年を迎えた「せとでん」

2025年12月16日

開業120周年を迎えた「せとでん」

鉄道愛好家 山田 司

名古屋・栄町を起点に、名古屋市北東部~尾張旭市を経て瀬戸市に至る名鉄瀬戸線。瀬戸の陶磁器産業の発展、そして沿線の生活と切り離せない交通機関として成長し、今もかつての「せとでん」という略称が沿線での呼び名として残るこの路線は、1905(明治38)年4月「瀬戸自動鐡道」の開業以来、今年でちょうど120周年を迎えました。また、「お堀電車」としても知られた瀬戸線ですが、名古屋城外堀区間、通称「外濠線」の廃止から来年2月で50周年となります。

 

折しも「せとでん」の誕生120周年と、「外濠線」廃止から50周年を迎える今、その経緯について振り返ってみたいと思います.

【せとでんの始まり】

明治時代中期を過ぎ、瀬戸の陶磁器産業の発展に伴う大量輸送手段の必要性が生じる中、国は中央本線の建設計画を進めていました。現在の同線は長野県塩尻から南下し、多治見から庄内川に沿って名古屋に入りますが、計画段階では他にも瀬戸ルートと小牧ルートの2案がありました。瀬戸の実業家たちは瀬戸ルートの採用を強く要望しましたが山越えが難題、小牧ルートは地元調整の不調でいずれも不採用。しかも、国の計画では設置される駅は春日井の次は千種。次善策として大曽根駅の設置を求めるも、国からは駅設置工事費用の全面負担に加え、瀬戸から大曽根を結ぶ鉄道を敷設することが条件として示されました。

これに応える形で瀬戸と名古屋の実業家が発起人となって設立されたのが「瀬戸自動鐡道」でした。余談ですが、瀬戸には「『汽車が通ると窯が壊れる』と窯屋の大将たちが反対したから中央線が通らなかったのだ」という俗説があります。しかしそれは全くのデマで、当時の地元窯業界の実力者たちは、窯が壊れる心配どころか、鉄道の誘致を国に談判し結局は自力で鉄道を敷くほど熱望していたのでした。

1905(明治38)、瀬戸自動鐡道は取り急ぎ尾張瀬戸~矢田を開業、翌年に矢田から念願の大曽根まで延伸し、瀬戸と大曽根を結ぶという所期の目的を達成しました。開業当初は3両のフランス製の「セルポレー式蒸気動車」で一日4往復の運転でしたが、車両の故障が多発し、複雑な構造で修理も容易ではない蒸気動車に見切りをつけ早々に電車運転への切替えを決定。開業翌年には社名も「瀬戸電気鐡道」に変更し路線を電化して電車運転を開始しました。これが今も略称として残る「せとでん」の語源となっています。当時はまだ全国的にも電気鉄道は数少なく、瀬戸電には開業時から先進的な姿勢があったことがうかがわれます。

【外濠線による堀川への延伸】

瀬戸電は開業後6年目の1911(明治44)年には大曽根からさらに名古屋市内を西へ進んで堀川まで開業し、堀川~尾張瀬戸が全通しましたが、このうち、通称「外濠線」と呼ばれる土居下~堀川の2.2kmは名古屋城外堀の中を軌道敷として利用するという類まれな手法がとられました。

当時、名古屋城の外堀は陸軍の管理下にあり、使用許可は困難と思われたところ、たまたま陸軍の司令部は外堀の本町、演習場は守山にあり、軍にとって利用価値が認められたことが幸いしたと云われています。また、運輸官庁の免許については名古屋市内の路面電車網を補完する位置付けで認められ、堀川延伸で瀬戸電を水運につないで貨物輸送の機能性を高めることが大きな目的であったものの、旅客と貨物、二面の輸送を担うこととなりました。外濠線内には堀川、御園、本町、大津町、久屋、東大手、土居下の7駅がありましたが、廃止まで残ったのは堀川、本町、大津町、土居下の4駅でした。

さて、堀川への延伸ルートとして名古屋城外堀を通すという手法には、実は大きなメリットがあります。まず、用地買収が不要となり準備期間と資金が大幅に省けること。また、本来なら清水から堀川へと進むには熱田台地を南に登り久屋からは西進して堀川へ向かって台地の西端部を下る、というアップダウンを強いられるところ、お堀の底をほぼ平坦に進むことができるなど、いいことづくめの選択であったといえそうです。ただ、久屋ではお堀の角に合わせて線路も「サンチャインカーブ」と呼ばれた90度の急曲線(写真上)を必要とし、陸軍本部前の本町橋だけは複線でくぐれる幅に拡げることが許されなかったため「ガントレット」という狭窄線で単線幅に絞る(他にも2箇所あったが拡幅実施)など、外濠線ならではの苦心の跡も見られました(写真下)。しかし、この外堀は水の流れない空堀だからこそ線路を敷くことができたわけですが、全国にお城や城跡は数多くあれども、このような例は、瀬戸線の他には長野県上田城のお堀を走った上田温泉電軌に見られるのみです。

なお、瀬戸電は、この外壕線敷設免許の申請とほぼ同時期に、熱田方面への延伸をもくろむ「精進川線」という新設路線も申請しています。もし精進川線が実現していたら、瀬戸線は神宮前経由で名古屋駅直通運転も行われていたかもしれません。

この外濠線、堀川での貨物扱いは1965(昭和40)年に終了し、大津町が唯一の通勤通学客輸送の要として残りましたが、栄町乗入れ工事の開始に伴い1976(昭和51)年2月、65年にわたる使命を終えました。

私個人の話ですが、50年前の今頃は受験生の身でありながら、年が明ければ廃止を待つばかりの堀川~土居下へと何度かカメラを提げて足を運んだことを懐かしく思い出します。

【せとでんの今】

瀬戸電気鐵道は1939(昭和14)年に名古屋鉄道と合併、名鉄瀬戸線として生まれ変わり、旅客と貨物の両面輸送で沿線地域を支えてきました。その後、1976(昭和51)年外濠線の廃止、1978(昭和53)年貨物輸送廃止、架線電圧600Vから1500Vへの昇圧、そして開業以来の大事業となった栄町乗入れの実現、さらには1988(昭和63)年の愛知環状鉄道の開業という出来事に加え、沿線の陶磁器工場が次々とマンションに変わるなどの環境変化によって、路線の性格が大きく変わっていくことになりました。

現在の瀬戸線では、かつての地方鉄道線的なイメージは影を潜め、矢田以西の連続立体交差化や喜多山駅高架化、全車ステンレス車体にインバータ制御をもつ瀬戸線専用の新造車両での統一など、まさに都市型路線と称して恥じない姿に変貌しています。数ある名鉄の路線の中でも優良路線的な存在として扱われているといっても過言ではなく、沿線に学校が多いことから、常に若い利用者が多いことも強みです。それでもなお、1939年の名鉄合併から86年となる今でも「せとでん」という愛称が年齢層を問わず使われることも珍しくないなど、瀬戸線は地域や沿線利用者からの愛着が他線にもまして強いことを感じます。それは地元主導で敷いた「おらが鉄道」の血統なのか、また名鉄の路線で唯一の独立線であるせいなのか理由はさておき、瀬戸線がどれだけ近代化しても、いつまでも「せとでん」と呼べる身近な路線であってほしいものです。

今回お話しできなかった、この半世紀に続いた瀬戸線の変革や、瀬戸線を走った車両の移り変わりなどについても、いずれ機会があればお話ししたく思っております。

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