藤井達吉と加藤菁山について―《佐美太礼(さみだれ)》(瀬戸市美術館蔵)を中心に―
瀬戸市美術館 学芸員 宮田悠衣
藤井達吉(1881~1964)は、愛知県碧南市生まれの日本近代を代表する工芸家です。
達吉は、大正期には東京で工芸家として活動しつつ、日本画や油彩画も手掛け、更には帝展の工芸部門の設立にも携わるなど、様々な活動を行っていました。そして、近代の美術界を代表する人物である高村光太郎(1883~1956)や、バーナード・リーチ(1887~1979)、津田青楓(1880~1978)たちと交流しました。
しかし、昭和のはじめ頃からは東京を離れ、全国各地の郷土工芸の調査を行い、生まれ故郷である愛知県で工芸の指導者としても活動するようになりました。この時期に、達吉は加藤菁山(1895~1966)によって瀬戸にも招かれ、瀬戸の若手陶芸家たちと交流するようになります。菁山は、当時の瀬戸陶芸を代表する人物で、「土の風景社」という長江明治(1909~1935)、加藤鏡一(1903~1983)が中心となって立ち上げた若手陶芸家集団の顧問をつとめていました。この「土の風景社」は後に「瀬戸作陶会」と改称し、現在も活動を続ける「瀬戸陶芸協会」の母体となった団体の1つです。
達吉から特に多くの教えを受けた亀井清市(1904~1967)や、栗木伎茶夫(1908~2007)、鈴木八郎(1915~2005)など戦前から戦後にかけての瀬戸陶芸を代表する陶芸家たちが所属していました。今回はそんな菁山と達吉の交流がうかがわれる《佐美太礼》(瀬戸市美術館蔵)をご紹介したいと思います。
《佐美太礼》は紺地の紙に朱墨や金泥を用いて様々な場所に五月雨が降る様子を描き、それぞれの情景にあわせて詠んだ歌を記した画巻です。本作品の全長は713.3(㎝)もあり、初めてこの作品を調査した時にはこんなにも大きなものだとは思わなかった為、調査をするのに想定外に時間がかかってしまったことを今でも思い出します。
さて、この画巻に描かれた場面の中には、昔から和歌に詠み込まれてきた地名なども登場します。
例えば、親たちに引き裂かれた悲恋を詠った歌が万葉集に載る「佐野の舟橋」。
更に、「身を尽くし」とかけて恋歌に詠まれることが多く、「わびぬれば今はたおなじ難波なる身をつくしてもあはんとぞ思ふ」の歌が有名な「澪標(みおつくし)」などが登場します。
そして、この作品を最後まで見終えると、画巻の裏側に「菁山兄 旅衣何の報申る代もなし しばし別れの形身ともかな 伊米」と記されています。この菁山兄とは加藤菁山のことであり、伊米とは達吉の号になりますので、この作品は達吉が菁山へと贈ったものであることがわかります。菁山は達吉を瀬戸に招いた際に、達吉の食事を自らの夫人に任せていたという話があります。
更に、達吉による「瀬戸追憶(加藤菁山氏夫人)」と題した「きびしかりし 妹菁山も老ひぬらむ つかれし夕のふたりかなしも」という歌もある事から、まさに菁山は家族ぐるみで達吉と交流していた様子が窺われます。以上のような状況から、本作品は、この頃に全国各地へと旅に出ていた達吉の旅装束を準備した菁山へのお礼の品だったのではないだろうかと考えています。
菁山との交流を偲ばせ、達吉の優れた画家としての一面もうかがうことの出来るこの作品は、6月10日まで瀬戸市美術館2階にて展示しております。短い期間にはなってしまいますが、是非、実物を見にいらして頂ければと存じます。