磁祖民吉と「染付焼起原」
元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川 一年
郷土の生業を興して後に神格化して神社に祀られる。陶都瀬戸の陶彦社の陶祖加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)と窯神社の磁祖加藤民吉の二人である。
陶祖藤四郎は、鎌倉時代初期に曹洞宗開祖となった道元に随行し、帰国後全国を行脚して瀬戸の地で祖母懐(そぼかい)土を発見、瀬戸焼を始めたと伝承されてきた。
平成24~26年度に「陶祖800年祭」がおこなわれた。幕開けの「藤四郎フォーラム」に始まり、「瀬戸博覧会」まで主要14事業が展開された。中に陶祖公園(瀬戸公園)の整備や市民中国訪問事業などもあった。「何故この時期が800年?」の解は、明治43(1910)年に関西府県共進会(前身は明治前期の内国勧業博覧会)が名古屋鶴舞公園で開催され、瀬戸町は大規模な「春慶翁700年祭」(春慶は藤四郎の別号)で協賛したことによる。その百年後の今ということであった。
陶祖藤四郎の生没年・来瀬時期、はたまたその人物像には諸説があるのに対し、一方の磁祖民吉像についてはかなり明確にされてきた。これは江戸時代後期という時代性もあるが、著者や紀年が実証される文書が残されていたからである。前者には残念ながら「擬文書」も多い。
瀬戸の産土神を祀る深川神社には社家二宮守恒が撰した「染付焼起原」が所蔵されてきた。東二宮家の初代守栄から数えて15代守恒(治部大夫丹後守)は文政四(1821)年に歿するまで、天明期の頃から宮司を務めた。尾張藩が天明・寛成の大改革を実施していた時期である。瀬戸焼も御国産の専売制とするための蔵元制度などが進められた。従来の陶器生産(瀬戸では「本業焼」と呼称)に加えて、新たな磁器生産(「新製焼」または「新製染付焼」と呼称)も始まったのである。大松窯の窯元・加藤吉左衛門の次男民吉が瀬戸村の期待を背負って先進地九州へ習業に派遣されたのである。
民吉は文化元(1804)年に瀬戸を出立、同四(1807)年に帰村、この間に天草の上田家皿山、佐々の福本家皿山などで習業する。守恒が著した「染付焼起原」はこの間の出来事を克明に記したものである。奥書には「文政元寅冬十一月二宮守恒撰 干時七十六翁書之」とある。
『瀬戸市史 陶磁篇三』(著者 滝本知二・昭和42年刊行)にはこの全文が掲載され、解説が載せられている。その後に郷土史研究者で市史発刊当時には市史編纂委員でもあった加藤庄三氏の遺稿『民吉街道』が子息正高氏から発刊された(昭和57年)。副題(ー瀬戸の磁祖・加藤民吉の足跡―)にある通り、氏は昭和33年から同39年まで計6回の調査を重ねられた。民吉の習業した皿山は勿論、世話になった天中和尚の天草東向寺、西方寺・薬王寺(佐世保)・東光寺(佐々)などを訪ねて古文献類を調査された。これらの史資料は惜しみなく市史の著者滝本氏に提供されたことが判る。民吉の口述を記録した二宮守恒宮司、その記録を隈なく精査された加藤庄三氏、この二人によって民吉像は確立したのである。
社家守恒の時代に深川神社本殿は諏訪の名工立川和四郎によって文政六(1823)年に建て替えられた。翌七年に陶祖藤四郎を祭神とする摂社「陶彦社」が上棟された。守恒は同四年に没したので完成時は16代守富宮司であった。
「染付焼起原」が世に出たのは、正に今から200年前だったのである。
二宮守恒像(深川神社所蔵)
(写真)「染付焼起原」の巻頭部と奥書部の2葉