尾張旭市文化財保護審議会委員 林 宏
皆さんは「一里山」という地名をご存知でしょうか。近くでは尾張旭市の瀬戸街道沿いの「一里山」(かつての印場村と新居村との境)、また東海道では刈谷市一里山町の「一里山」や豊橋市東細谷町の「一里山」などがあり、いずれにも一里塚がその地に築かれていました。今年の夏、埼玉県鴻巣市(こうのすし)内の国道17号線を走っていた際、「一里山」という交差点を見付けました。やはりかつての中山道沿いの場所です。つまり、「一里山」とは一里塚そのものを指す古い言葉で、「山」といっても高い丘陵を指すのではなく、わずか数メートルでも土を盛り上げ、その上に樹木が生えていれば、昔の人は「山」と呼んだのです。
さて、尾張旭市の「一里山」にかつて小型の一里塚が築かれていたことは、昭和初期に印場の森平三郎(もりへいさぶろう)氏によって著された『祖父子誌(そぶこし)』や加藤庄三氏の『渋川問答(しぶかわもんどう)』などの記述によっても、また当地の言い伝えによっても明らかです。正保(しょうほう)4年(1647)作成の『尾張国絵図』には数多くの街道に「一里塚(一里山)」の印=●●が記されており、かつての瀬戸街道(当時は「信州飯田街道」と呼ばれていたようである)にも●●印がいくつも付けられています。その内の一つの一里塚が印場に設けられたのです。一方、瀬戸市には現在「一里塚町」という地名があり、かつて一里塚が築かれていたために命名されたことが想像されます。(ただし、「一里塚町」の地名は昭和17年に付けられたもので、この地にかつて一里塚が設けられた故の町名であることを知らない方も多いようです)
そこで、昭和3年(1928)に加藤庄三氏によって著された『三平老遺話(さんぺいろういわ)』という書物を繙(ひもと)いてみました。
「 一里塚
一里塚は加藤紋右エ門(もんえもん)所有の田の中に今もあるが 昔から其(その)塚には名剣が埋めてあるとか或(あるい)は之(これ)を発掘したり 取り去つて田にしたり等すると祟ると云ふ云ひ伝へで 誰もかまふ者がない。位置は幸右エ門(こうえもん)の越して行つた裏手の所で 弘法堂の下にある。 」
と、かなり具体的な記述が見られます。
また、昭和5年に作成された『瀬戸市現勢全図』には、その位置が図示されています(○印の中に一里塚と書かれている)。祖母懐橋を渡って南東方向に進み、旧小原道を約220メートル進んだ所で、細い道と交差する辺りです。つまり現在の「本業窯」へ入る道のすぐ手前の、小さな交差点の辺りになるように思われます。つまり、三平翁の証言を信ずれば、昭和初期頃まではその位置に一里塚が存在していたようです。これは、名古屋城下から5番目の「一里山(一里塚)」になります。
なお正保(しょうほう)の『国絵図』によると、名古屋城から出発して東(三州小原方面)へ向う街道には6ケ所の●●印が描かれています。最初の「一里山」は大曽根村(現在大隈病院の辺り)、その先から瀬戸街道が始まり、2番目が大森村(大森寺と小幡との間)、そして印場の「一里山」、4番目が新居村と今村境の「根の鼻」辺り、5番目が瀬戸村外れの「一里塚」、そこはすでに「三州小原道」です。そして、最後が赤津の雲興寺の先。その先は三河国です。
『尾張国絵図』には、尾三国境のところに「名護屋(なごや)城下一里山より赤津筋三州山境まで六里弐十壱町五間」と記されています。それら6ケ所の「一里山」の内、大曽根・印場・瀬戸「一里塚町」の3ケ所が、その存在が確実で、位置も明らかな一里塚になります。
やはり、瀬戸街道には正保4年(1647)より以前に小型の一里塚が一里毎に設けられたことが分ります。詳しくは拙著『思いつくまま 尾張旭歴史私考』(上)をご覧いただければ幸いです。
なお、五位塚町の「五位塚」も瀬戸村の追分から信州飯田街道へ進んだ先の、名古屋城下から数えて5番目の一里塚、つまり「五里塚」が訛(なま)ったものという解釈も可能ではないかと思われますが、不明です。(「五里塚」「三里塚」などの地名は各地に見られます)
正保4年作成『尾張国絵図』の一部。中央部、瀬戸村・赤津村の間の●●が「一里塚町」の一里塚。
昭和5年『瀬戸市現勢全図』の一部。下部中央の○の中に「一里塚」と書かれ、その位置が分かる。