瀬戸の正月
元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川 一年
正月準備 師走から正月にかけては、濃厚な民俗文化が残されている。民俗学では師走は「仕極(は)つ」からきており、一年総仕舞の「事終(じま)い」の行事が続く。と同時に正月を迎える準備が始まる。
瀬戸市は近世の18カ村から構成され、尾張国ではあるが、東は西三河に・東から北は美濃と境して、多様な民俗性が残されている。年末に、海上の里の復元古民家(里山サテライト)で迎春準備の門松を立てた。海上の森の会では、昔からの風習を子どもたちに伝えようということで、地元の年配者の指導で復元、もう10年以上が経つ。さらにカド庭いっぱいにオコズナで大きな日の出を描き、さらに屋敷の入り口から門松まで砂で梯子を描いた。これは、門松や注連縄と同様に歳神の依り代(しろ)であった。屋敷内外の清掃の後、以前は子どもたちも参加して鏡餅を搗いた。最後に搗きたての餅とシシ鍋で興じたが、今年は会員だけの静かな作業であった。
今年度から、瀬戸市は「賀正 門松代用紙」の各戸配布を止めた。第2次大戦の戦中・戦後の無秩序な乱伐によって、瀬戸市周辺の山林ははげ山に近い状態であった。1948年から、県下で最初の本格的な治山事業が始まり、1951年に「瀬戸市治山治水協会」が設立、「緑の週間」を中心に全市「一戸一本(松苗)運動」や「三万本(植樹)運動」などが展開された。この頃の小中学生は県有林のはげ山に松苗を植樹した体験を持っている。1954年正月以降、門松廃止運動が提唱されて市役所始め門松を立てない施設が多くなった。地元新聞が全戸配布する門松絵の短冊を玄関に貼る瀬戸独特の風習が続いたものであった。
海上の里の門松とオコズナ
正月行事 一年の始まりは社寺参拝から始まった。初詣である。初詣に出かけるのは、氏神と地元の寺、シマの祠堂である。途中で人に出会っても口をきくでないと言われていた。一年最初に発する言葉は神仏への願いごとであるべきだという意識であったからであろう。元旦の朝は、一家の当主が誰よりも早く起きて、屋敷の井戸水を汲んだ。これをワカミズ(若水)迎といった。これを神仏に供え、お茶を沸かし、少し残した水で2日の書初めに使った。雑煮も男が炊いた。餅は四角ののし餅で、醤油と煮干し・昆布の出し汁にマナ(正月菜、モチ菜)を入れるくらいの雑煮であった。この日は女性の休み日で、「掃き出すから縁起が悪い」と掃除を避け、風呂も沸かさなかった。
正月2日は仕事始めである。農家は苗代田の一部を鍬で起こして松の小枝を差し、ミカン・タツクリ・餅などを供えた。農具や粘土鉱山の工具を造る鍛冶屋はこの日、トブネの水を替えて砥石で金床を研ぎ、新しいマッチで火を起こして縁起物の剣を打つ「打ち初め」である。瀬戸の窯屋の職人はロクロを挽いて「作り初め」である。お神酒徳利を作り,その年最初の窯で焼いて神棚・山の神・窯場などに供えた。商店は「初荷」を商い、銭湯の「初風呂」に入ると若返るという人たちで朝から賑わった。瀬戸には2日の朝「トロロ飯」を食する風習がある。特に赤津・品野など山との関わりの多い地区である。この日は「初山」「山入り」といって、小正月用の飾り木を切ってくるのである。正月行事の多くは、米作り(弥生文化)が源流となっているが、瀬戸にはその数倍も長い縄文文化が存在する。その時代の主食は「イモ(芋)」であった。
新型コロナ感染下の正月、初詣も密を避けた「分散参拝」・「キャッシュレス賽銭」などが登場、帰省のかなわぬ子からは将棋好きの親に「会わぬのが親孝行となる日々に藤井聡太の切り抜き送る」(俵万智歌集)の特異年。高島暦の大成卦にも多難の国運が予想されている。しかし、瀬戸には千年を超す窯業の歴史が地下水脈となって流れる「窯ドコ(所)習俗」があり、幾多の困難を乗り越えた「不死鳥のあゆみ」がある