津金文左衛門胤臣・胤貞父子
瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 松原 良滋
9月に行われる「せともの祭」は陶磁器の廉売市が有名な祭りでもあるが、本来はこの「磁祖民吉」を讃える産業祭である。
江戸中期、肥前の磁器に瀬戸の陶器は苦境に追い込まれ、窯屋は「轆轤(ロクロ)一挺に限る」と申し合わせて長男が家業を継げば、二男三男は失職するという状況に立ちいっていた。享和元年(1801)熱田前新田が干拓され、加藤吉左衛門・民吉親子もその開拓に参加していた。ここで、熱田奉行津金文左衛門胤臣と出会い、瀬戸陶業復興のきっかけをつくった。熱田で新製焼(当時は南京焼き・磁器)の開発を行ったが結実しなかった。(素地が白くなく、ゴスが流れる等の磁器?有田の磁器に及ばないものであった。)民吉は九州の肥後・肥前へ技術導入に文化元年(1804)2月出掛け、天草東向寺住職天中和尚の援助を得て、天草高浜の上田家と、平戸藩市ノ瀬村皿山(現北松浦郡佐々町)の福本家で習業し、帰国は文化4年6月であった。以後、瀬戸の陶業は見事に復興した。
津金文左衛門胤臣・胤貞父子
津金家の祖は甲斐津金の産で、武田家に仕えていた。勝頼、家康、秀忠に仕え、後に尾張徳川義直に仕え、胤臣はその七代目、当時石高250石馬回りであった。尾張中興の明主と云われる九代藩主徳川宗睦公(1733~1799)に重用され、胤臣は人見黍(あつし 陶祖藤四郎の伝記「陶祖頌」の執筆者)、樋口好古、水野充(まこと)と共に宗睦公の要請で藩校・明倫堂を創設した。督学(校長)細井平州云く、尾州四賢人と云わしめた一人である。寛政3年(1791)から熱田奉行と船奉行を兼ね、17世紀中葉から行われていた海部郡、名古屋市南部の干拓を命じられた。新田開発は現代の化学技術を持っていても、海面より低いのが普通で、時々暴風雨でも来れば堤防は決壊の例は多いし、塩分を取り去るには、水と多くの年月の経過が必要である。安全に十分な収量を得るまでに相当の出費になる。そのために胤臣はこの事業を決行するまでに多くの反対論者の説得を必要とした。開発前のこの地は大きく見れば、木曾川の三角州、細かく見れば日光・善太・蟹江・戸田等の諸川が土砂を流し、文字通り飛び島になっていたが、この外側に堤防を築き、川泥でかさ上げをして、耕地を作るという計画である。工事は困難を極めたが、享和元年(1801)767ヘクタールの干拓が見事に完成された。
磁器の神となる民吉・吉左衛門父子
飛島干拓完成後、休む間もなく文左衛門に熱田前新田(名古屋市港区の大部分)の埋め立ても手がけている。この熱田前新田に集った農民の中に、春日井郡瀬戸村の陶工加藤吉左衛門とその二男民吉があった。いずれも新開地に来て農耕に従事した。当時瀬戸においては、二男以下はその職に就くことができなかったので、加藤父子はそのためこの新開地に来たのである。胤臣はこのことを庄屋から聞いて、南京焼の製法をこの父子に教え、米塩を与え、特別に八十両を貸与して研究させた。この父子に現在の東海通り(港区辰巳町・津金町)中川古堤に窯を築き、陶土を知多郡加家から採り、杯・小皿・箸立等を盛んに焼いて、これを「新製焼」といった。これに対して瀬戸で焼いた物は「本業焼」といった。瀬戸・赤津の窯は新製焼に圧倒される事になったので、胤臣に請うて、この窯を瀬戸に移すことになった。藩でも一屋一人制限を解除して、二男以下の新製焼の経営を許可し、吉左衛門・民吉父子も瀬戸に帰った。
まもなく胤臣は死亡したが、その子胤貞は新製焼の改良を計り、民吉を九州に赴かせ四年間の研究に当たらせた。そして瀬戸に帰って窯式を改めて今九窯と称した。これが現在の磁器の元祖である。
津金文左衛門関係 年表
(飛島村史 通史編参照)
津金文左衛門頌徳碑と尾張磁器発祥之地碑
津金文左衛門胤臣像 元松神社境内
昭和13年1月「名古屋陶磁器貿易小史編纂部」発刊の尾張磁器の先覺者「津金胤臣父子頒徳碑」建立について、父文左衛門の話と共に、嗣子「庄七胤貞」についても詳しく記述されている。
津金庄七胤貞と瀬戸窯業の関わり
父文左衛門胤臣が病にかかり、嗣子庄七胤貞が萬事世話をしていた。新製南京焼(磁器)が10月に完成し、瀬戸の庄屋唐左ヱ門の訪問を受けた。当時の瀬戸窯職は当主一人に限られていて、家族のものは仕事も無く、村方の皆々が困っている。熱田前新田に新製焼が出来ては瀬戸が立ち行かなくなるのは申すに及ばず、赤津・品野にも影響があるから御支配代官水野権平様にお取り計らい方願った所、拙者では取計ひかねるから、津金奉行の許へ参り委細の訳を話してお願い申せと云う事で、何卒瀬戸の窮状をお察しの上、新製焼きを瀬戸へお移し下さるようお願いしたいと胤臣に嘆願した。
胤臣も熱田前新田で新製焼きを始める事を藩に願出で、その許しもあった後などで困ったが、瀬戸の困窮の状態を訴えられては之を退けるわけにも行かず、新製焼きを熱田より瀬戸に移すこととし、唐左エ門と相共に願い出て、瀬戸の次男以下の職業として差許され、吉左エ門・民吉父子も帰村がなって非常に喜んだ。翌月11月の事である。
文左衛門逝いて後、嗣子庄七胤貞は父の遺志を継ぐことになった。享和元年(1801)12月、肥前・天草に丸窯の製法あり、焼方格別具合良く、品柄も余程宜しき物がも出来るとの噂などで、窯職のものに相談し、又、藩公にもお願いして、その許しを得た上、享和4年(1804)2月、民吉を天草に出発さしめたが、他国人は入国すら困難にして、まして新製焼きの製法の伝授を受ける事は及びもつかない事であった。庄七は苦慮の末、知人にして、大森村実輪寺の弟子某(天中と一書あり)が天草にあるを知り、之に民吉を寺男として住込ませた。然し目的は製陶法にあれば、種々苦心考慮して、天中和尚の取持で某家の養子となし、漸く丸窯の焼方及びケロクロ=(足で蹴るロクロ)の使い方を習い、修業中唐津・伊万里にも行きて、民吉は4年間費やし、文化4年(1807)6月帰村した。庄七は此の間250石の収入中より年々百両の私財を送り、往復の旅費も一手に引き受けた。百両の金は当時としては非常に大金で、津金庄七の手では続かない。富商「紅葉屋」に話して、金子を借りた。「紅葉屋」もその志に感じて寄付を申し出たが、庄七は貸与してくれれば良いと云うので、『一 、金壱百両也 上記借用仕候事実証なり、返済の儀は都合を以て可致しの也とする。』という借用書が残っている。
津金庄七への功分金下賜に付いては次のような話も伝えられている。
庄七胤貞は新製染付焼発明に対する努力等から、諸役所より拝借高莫大に上がり小高にて返済が困難で困惑していた。之を伝え聞いた瀬戸の窯職の者が、代官水野氏を通して藩公に新製焼開発に関する庄七父子二代の功業を上申し、窯職の者として報恩致し度き、山々乍ら困窮の身としてはそれも出来ないから、御国益に貢献した功を以て庄七へ功分金として年々百両を賜り、又、窯職の者へ年々五十両拝借を仰ぐ事とし、合計百五十両の返済は窯職の者が永年賦で行う事とした。
津金胤臣父子碑について
昭和12年、瀬戸市に於ける窯業関係有力者の発起で「磁祖加藤民吉翁頌徳会」を組織し、同市窯神神社の拡張工事並びに磁祖民吉翁の銅像を建立するとの事となったので、事業の翼賛を当名古屋陶磁器業界に求めて来た。当時名古屋の業界は世界陶磁器輸出国として一・二を争うまでに発展したことは民吉翁の功績を讃えるを惜しまないものである。又、津金文左衛門父子の偉業を偲い、瀬戸窯神社の津金胤臣・胤貞父子の頌徳碑が昭和13年3月完成した。
昭和12年民吉の銅像が建立され、翌年完成した。名古屋の陶磁器関係業者が「瀬戸の者は民吉ばかりを思って、津金父子の恩を忘れていることはけしからん。この機会にぜひ建立したい」と申し出があり、巨大な自然石を用いて建てられた。
追記 明治33年飛島新田開発百年祭を営むに当たり、元松神明社に碑を建て津金翁の偉業を顕彰し、昭和3年農政功労者として、正五位を贈られた。
名古屋の港区役所に接している港北公園の一角に、名古屋陶磁器商業組合により立派な「津金文左衛門胤臣頌徳碑」と民吉をたたえた「尾張磁器発祥の地」の碑が燦然と光り輝いています。又、飛島村では津金文左衛門は、「飛島村の生みの親」と崇められ、昭和27年葬られていた名古屋市中区門前町大光院墓地移転の時、縁深いこの地に移され盛大に農民葬が行われた。
昭和28年に建てられた立派な銅像は元起郷・神明社にあります。毎年風薫る5月12日には「津金講」の人々によって遺徳を偲ぶ法要が長昌院にて営まれ香煙が美田の上を静かに流れます。
(この項は飛島村史 通史編より抜粋)
長昌院
津金文左衛門胤臣・胤貞父子頌徳碑 名古屋陶磁器組合 昭和13年建立 (窯神神社内)
磁祖民吉翁の銅像 「磁祖民吉翁」の銅像 加藤 顕清作 昭和12年建立(窯神神社内)
津金文左衛門 肖像画
昭和27年名古屋大光院より移転の折、白蝋化になった死の直後とあまり変化なくその遺体を参考に像画として残す。(飛島村・郷土資料館蔵)
津金奉行干拓地関係頌徳碑・神社と民吉父子の出合の関係地図
津金奉行干拓地関係頌徳碑・神社と民吉父子の出合の関係地図