元瀬戸市文化振興財団事務局長 谷口雅夫
平城京や平安京が四神相応(ししんそうおう)の地であることは有名です。「四神」とは、東西南北の四方を守る神のことです。 東は青龍(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)、南は朱雀(すざく)、北は玄武(げんぶ)の四神を言います。 キトラ古墳や高松塚古墳の四方の壁にもこの図が描かれています。
都市をつくる際には、その地相の吉凶を判断するため、風水の考え方が取り入れられました。山の連なり、つまり山脈を龍に見立て、その内部に流れるエネルギー(気)を「龍脈」とし、そのエネルギーが吹き出すスポット(穴)を探し求めます。前後に相対する山が左右に偏っておらず、左右の山も高低差がない十字対称な地形であり、こういう地形構造を備えている場所が風水の吉地となります。これら東西南北の山を基点として、それぞれを結んでできた十字軸の交差点を「龍穴(りゅうけつ)」といい、その龍穴の前の広い平地を「明堂(めいどう)」といいます。
◆瀬戸村の吉地は本郷地区
瀬戸村の場合、北の玄武の山は旧「上水野」三角点のあった峰、南の朱雀の山は「山口峠」三角点、東の青龍の山は「赤津」三角点のある峰を、また西の白虎の山は窯神神社のある峰をあて、これらを結んでできた十字の交差点、つまり「龍穴」は陶祖公園にある陶祖碑のすぐ近くの南斜面となります。そして、龍穴のある陶祖公園と南に位置する経塚山との間には開けた空間があり、これを「明堂」にあてることができます。この明堂を求めてから、瀬戸村の最初の都市づくりの場所と定めようとした、あるいは最初の都市づくりの場所と定めてから占ったものと考えられ、それがまさしく本郷地区なのです。
本郷地区では、さらに理想的な風水地理が求められました。南の経塚山の頂上から真北への直線と、東の弥蔵ヶ峰の頂上から真西への直線との交差点(深川神社から京間300間)に、「山ノ神」(山口神社)を創祀したと推測できます。
(山口神社 瀬戸市東郷町)
その際、前後左右が対称の理想的な地形構造とするために、西に開けているのを補う工夫として、「山ノ神」から京間100間(約200m)のところに人工的に盛土をして山を築いたのでした。江戸時代後期の村絵図に描かれる小さな山(「藤四郎宅跡」と記される)がこれにあたります。
さらに、本来方位の守護神であった四神に「山・川・道などといった地形条件が加味され、東に川あれば青龍、南に池あれば朱雀、西に道あれば白虎、北に山あれば玄武という具合に、このような条件にかなう地が理想的な四神相応の地とされる」といった、四神相応の理念が異なった内容となり、日本に流布するようになりました。北の玄武の山は「藤四郎山」、東の青龍の川は「寺本川」、南の朱雀の澤(池・湖)は「祖母壊の雨池」、西の白虎の大道は名古屋城につながる「名古屋への道」になぞらえたのです。
◆瀬戸村の「陶都」プロジェクト
慶長15年(1619)、名古屋城築城と清州越にともなう必要物資を確保するために、美濃に移り住んでいた竃屋が瀬戸市域に戻されたとされます。そのことを示す史料として、1つは寺西藤左衛門から赤津村庄屋宗左衛門宛に出された達書、もう1つは寺西と原田右衛門から下品野村へ入る竃屋新右衛門・三右衛門宛に出された諸役免許の連署状であります。瀬戸村には史料が残されていませんが、同様であったに違いないでしょう。
本郷地区の「山ノ神」を中心に北・南・東に、名古屋城下の町人地の町割と同じ寸法を使い、京間100間の場所に竃屋が計画的に配置されたと推測できます。その十字対称の竃屋とは、北に配置された日影窯、南の経塚山窯、東の日面窯、辰巳の元十窯の竃屋たちです。こうした配置は、いわば竃屋たちを掌握するための手段であり、指定された場所での操業義務や焼物を必要に応じて納入することが義務付けられましたが、一方で竃場・細工場・居屋敷地が御除地として与えられたほか、諸役も免除される権利を得たのです。
これこそが、徳川家康によって推し進められた瀬戸村の竃屋の計画都市、いわば「陶都」プロジェクトのはじまりであったと考えられます。まさしく江戸時代初期の瀬戸村本郷とは、瀬戸川と寺本川が合流する周辺や瀬戸川対岸をも含んだ、「山ノ神」を中心として四方を200間で囲まれる地域であり、「山ノ神」(現山口神社)はその「1丁目1番地」といえるのです。
さらに、瀬戸村の「1町」は、名古屋城下の町人地の町割寸法と同じ「50間」とする都市モジュールとすれば、瀬戸村「本郷」とは、古代都城の条坊制で言う「1坊」、すなわち200間(4町)四方の都市区画となるのです。瀬戸村の都市づくりの思想は、まさしく都城を模した“陶(すえ)の都”をつくることにあったといえましょう。
『陶都瀬戸村物語』-陶都瀬戸村の誕生秘話と陶祖碑建立の謎解き- より