完成から80年の民吉像とその作者顕清
窯神神社崇敬会 会長 加藤邦彦
窯神神社境内にある磁祖加藤民吉翁の銅像が完成して今年(2017年)で満80年。
昭和12年(1937年)9月16日、第6回せともの祭当日に盛大な竣工式が執り行われ、制作者は当時の著名な彫刻家・加藤顕清(ケンセイ.本名鬼頭太)。
今年4月、民吉像が完成した頃の参拝者芳名録が窯神神社社務所で発見された。その中には、昭和14年11月6日の日付けで加藤顕清の署名もある。この芳名録、日付けが確定されるものは昭和14年から始まっており、著名な彫刻家・顕清の民吉像を日本各地から見に訪れたのか、大勢の署名が残されている。その中には著名人のいくつかの名前も見ることができる。
“窯神山の松の影、緑に映ゆる丘の上……”と道泉小学校々歌にも歌われており、子供の頃 神社に隣接する山で春は雲雀の巣を探したり、夏には境内で蝉捕りをしたりして遊んでいて、常に見慣れていた民吉さんの銅像。そんな民吉像も改めて間近で見ると、その凜々しい顔と衣裳の彫りの力強さに圧倒され、顕清43歳の時の作品のすばらしさに目を見張るばかりである。
民吉銅像
加藤顕清の署名
そこで瀬戸に於いてもあまり多くの人々に知られていない加藤顕清について少々調べてみましたので、瀬戸との関係を主に記させていたゞきます。
顕清の父・蔦次郎一家は岐阜県土岐郡下石(現土岐市)の出身。屯田兵を志願して北海道へ移住、その後明治27年(1894年)12月19日に顕清は出生。旭川の小学校の頃から美術の才能があり、将来は東京の美術学校へ進学を希望するも、経済的理由で家族の許可は得られなかった。そこで色 々考えた末、瀬戸の湯之根町の親戚で、当時町議会議員をしていた加藤丈一郎に相談し、かなりの期間世話になっていた様である。そして丈一郎から学資の援助を受けることができ東京美術学校(現在の東京芸大)に入学、大正9年(1920年)同校彫刻本科塑像部を優秀な成績で卒業、さらに同校西洋画本科に進み昭和3年(1928年)に卒業。同年、第9回帝展に「若き女」、第10回に「幻影の女」、第11回に「立てるの女」を出品し、あいついで特選を受賞。昭和6年(1931年)には帝展審査員に推挙され、翌年には母校東京美術学校の講師を嘱託され、又 昭和11年(1936年)には日本彫刻家協会を創設し、初代会長に就任した。そして昭和12年、民吉像がこの様な当時の日本を代表する著名な彫刻家により作られたことは、やはり学費の援助をした親戚の町議会議員加藤丈一郎との縁によるものと思われる。
太平洋戦争中は海軍顧問(大佐)として「キスカ島」に一時期駐留したと記されている。顕清は、民吉像を手掛けたことで瀬戸との関係が深くなっていた為か、戦後昭和21年(1946年)10月に、北海道興農公社(現在の雪印乳業)社長黒沢某がスポンサーとなって、西古瀬戸町の古瀬戸川左岸に『オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所』を創設した。当時の記憶がわずかに残る人によれば、研究所の復元景観図からも推測できる様な牧場風の、とてもモダンな建物だったとのことである。創設者加藤顕清は、当時の彫刻界第一人者であり、又顕清の先輩でもあった沼田一雅を初代所長に迎え、昭和25年(1950年)にはその後を継いで2代目所長に就いた。こゝにはノグチ・イサム、北川民治、赤塚幹也、鈴木清々等々がいて、製作活動や研究に励んでいたと記されている。研究所創設に奔走した当時の瀬戸陶芸界重鎮加藤華仙は、開所直前に急逝された。顕清は昭和28年1953年)渡欧の為瀬戸を去り、研究所は閉所となり、昭和32年頃には消滅した様で、『幻の研究所』と云われる所以である。顕清は昭和22年(1947年)には東京芸大講師を勤め、昭和26年度日本芸術院賞を受賞、その後芸術院会員として活躍し多くの作品を遺した。子供の頃から世話になった加藤丈一郎宅にも、肖像画とブロンズ製の馬を遺したと記されている。昭和41年(1966年)11月にアトリエのあった神奈川県藤沢市の病院で逝去した。享年73歳
浜島芳夫氏による「オリエンタルデコラティブ陶磁彫刻研究所」復元景観図
因みに、加藤顕清による民吉像が完成した昭和12年には、窯神ロータリーにある『磁祖加藤民吉出生之地』碑と、窯神神社石段の下にある『磁祖加藤民吉窯跡』碑も同じ時に建立された。双方共に徳川義親侯の揮豪によるものである。又、伯爵金子堅太郎書による巨大な自然石の『津金胤臣父子頌徳碑』は翌年昭和13年3月に、「瀬戸の者は民吉ばかりを称えて、熱田の新田開発に来ていた民吉親子を見い出し、全面的に援助した熱田奉行の津金父子の恩を忘れている……」と名古屋の陶磁器関係3組合によって建立された。当時の瀬戸、そして又名古屋の陶磁器業界がいかに先人を思い、気概と力があったかを計り知ることができる。
磁祖民吉翁は瀬戸陶業の中興の祖であり、その銅像を制作した加藤顕清が当時の日本に於る著名な彫刻家であったことは疑う余地もないところである。民吉翁の銅像が太平洋戦争中の金属供出も免れて今日残っていることは、当時の瀬戸の人々の強い請願があったことによるとはいえ、正に驚くべきことゝ思われる。そしてこの様な先人の遺した瀬戸の貴重な文化遺産を広く世に知らしめると共に、今後も末長く大切にされることを念願致す次第です。
左:「民吉出生之地」碑
中:「民吉窯跡」碑
右:「津金胤臣父子頌徳碑」
《参考文献及び資料》
「郷土に足跡を残した人々」(加藤政雄著.2006年6月20日発行)
「瀬戸物祭は雨になる-郷土の先哲をたどる-」(加藤正高著.平成16年発行)
「五十年のあゆみ」(古瀬戸小学校創立50周年記念事業実行委員会平成元年11月30発行
「中日ホームニュース」(株式会社瀬戸中日サービス.平成元年8月4日発行)
その他「ウイキペディア」等々のネット情報も参考