創業100年を迎えて
吾妻軒本店 4代目当主 安藤礼一郎
令和へと時代の転換を迎えた今年、時を同じくして、私ども吾妻軒本店も大きな節目となる創業100年を迎えました。まずは長きに渡りご愛顧をいただいた皆様に心よりの感謝を申し上げます。
100年前はどんな時代だったのでしょうか?少し気になったので調べてみました。
時は大正8年。第一次世界大戦が終わりを迎えようとしていた頃で、パリ講和会議が行われ、ヴェルサイユ条約が締結された年でした。また、数年前にはソビエト(現ロシア)で世界初の社会主義国家が成立したり、イタリアではムッソリーニのファシスト党が結成されたりと、教科書に載るような大きな時代の変化があった時期のようです。
日本国内では、のちに昭和天皇となられた裕仁親王が成年され、良子女王(香淳皇后)との婚約が成立した年だそうです。また、私たちに身近な出来事としては、カルピスが発売されたり、キューピーマヨネーズが設立されたりしました。
そんな年に吾妻軒本店は、現在とは少し離れた宮川町(現在の宮川駐車場の近辺)で創業しました。現在の松本眼科さんのご近所だったそうです。
最初の当主は、私の祖父の兄の安藤国鶴という方で、横浜にあった「吾妻軒」という和菓子店で修行を積み、のれんを貰い受けて故郷の瀬戸市で独立、開店しました。初代は早くリタイアしたため、私の祖父である2代目の亀尾がその後を引き継ぎました。祖父の仕事ぶりは正直あまり記憶にはありませんが、祖母は晩年まで店先に立ち、店番や包みものなどをしていたのを懐かしく思い出します。
第2次世界大戦中、最初の店舗のあった宮川町が防火・延焼対策のために取り壊されたり、物資が手に入らなかったりで、個人店としての営業は出来なかった時期もあったと聞きました。数年間の休業を経た戦後昭和20年頃、現在の店舗である新道町で吾妻軒本店は再スタートを切りました。
昭和30年代の吾妻軒本店
戦後の混乱など多くの苦難があったことと思いますが、祖父と3代目の父・陽一郎が店を盛り立て、4代目の私へとバトンを繋いでくれました。残念ながら、創業100年と米寿の祝いを目前にして昨年の春、先代の父は永眠しました。最後の入院をする少し前まで仕事場で手伝いをしてくれていました。まさに生涯現役を体現した人生だったと思います。今にして思うと、あんな事やこんな事をもっと聞いておけば良かった、教えてもらいたかったなどと思うことが多々あります。ですが、最後まで一緒に仕事が出来た事は私にとっては大きな財産です。一緒に仕事をしながら学んだ技術や仕事への姿勢を忘れずに精進していきたいと思います。
先代の器用な手先から生まれたお菓子の数々は今でも店の定番人気商品で、超えるのは難しい高い壁です。難しいことではありますが、受け継がれてきた数々のお菓子に自分なりのアレンジをしたり、新しい組み合わせやレシピを考案したりして、私なりの思いのこもった商品をお届けしていきたいです。私の考案した商品が、長く愛されるような商品になってくれればこれほど嬉しい事はありません。
和菓子も徐々に進化しており、あっと驚くような斬新なお菓子や奇抜なものも見かけます。効率が良く大量生産できるような製造方法や、日持ちを長くする保存料などもたくさんあります。しかし、私はどちらかというと古典的で伝統的な和菓子・製法を大切に受け継いでいきたいと考えています。出来る限りよい材料を選び、丁寧な和菓子作りを心がけております。あまり目新しいさや面白さは無いかも知れませんが、古来のレシピや製法で作ったお菓子はどなたにも安心して召し上がっていただけると思います。ただのお菓子ではありますが、和菓子は日本の花鳥風月を愛でる文化の一端を担っていると考えます。まだまだ学ばなければならない事も多いですが、真面目に愚直に、先人の背中を追い続けて行きたいと思っています。
最後に、歳時記ということですので、時節とあわせて少し当店の商品を紹介させていただきます。今年も5月から6月にかけて各所で鮎漁が解禁されました。この地方では長良川の鵜飼が有名ですね。それに合わせて当店では鮎にちなんだ生菓子を夏季販売しております。
若鮎
6月の生菓子
特に〈若鮎〉は、よく見かけるどら焼きの生地のような焼き菓子では無く、練り切りを使った細工菓子で、本物の鮎の塩焼きのようだと驚かれるお客様も多いです。今時の言葉で言えば、インスタ映えする商品ではないかな?と思います。他にも初夏から夏にかけては見た目も涼しげな生菓子や、冷やしてもおいしく召し上がって頂ける和菓子を各種ご用意しております。深川神社さんへのご参拝の折にはぜひお立ち寄り下さい。