元瀬戸市文化振興財団事務局長 谷口雅夫
古代における吉地の選定にあたっては、四神相応(ししんそうおう)の地相のほかにも、冬至太陽出没方位に配慮して選定したとされています。江戸時代初期の瀬戸村の都市づくりにあたっては、本郷地区において、太陽信仰や方位信仰も取り入れられたことが推測できます。
◆辰巳隅(たつみすみ)信仰と戌亥隅(いぬいすみ)信仰
山口神社の社は冬至旭日を拝しうる方角、すなわち辰巳の方角に向かって建てられています。一般的に神社は南に向って建てられていますが、これは『周易(しゅうえき)』にある「天子(てんし)南面す」という古代中国の易思想からきているようです。社は約400年経過するなかで、何回も建て替えられてきたでしょうが、社の向きは今日まで変わることはなかったと考えられます。なぜなら、冬至旭日の方位は、古代暦では冬至を1年の始まりとして捉えており、冬至以降では陽気が回復し、日照時間が長くなってくるので、冬至の日の出の方位は生産回復の方位であり、生産・豊穣を祈願する信仰の対象となったからです。
伊勢神宮の内宮を囲う五十鈴川に架けられた宇治橋、冬至の日には宇治橋とこの橋の前にある鳥居を結ぶ一直線上に、朝日が昇る光景はよく知られています。同じように、山口神社には社の正面に平成7年に建立された鳥居があり、冬至の日には、この鳥居よりやや北寄りになるものの、日の出を拝することができます。社の向きは、冬至信仰をも取り入れた配慮がなされたと考えられます。
このように、旭日の方向である東から南東にかけては、農耕にとって重要な日射の方位であり、また日常生活の始まりであることから、辰巳隅信仰が隆盛しました。山ノ神(山口神社)は、古くから村人に信仰される深川神社から、辰巳の方向300間の位置に計画されました。古くからある深川神社を軸として考えれば、辰巳隅信仰により山ノ神の場所が決められたことになります。その一方で、反対の方位は戌亥隅信仰により祖霊・地霊が坐(いま)す方位ということになります。すなわち、山ノ神を新たに祀ることにより、この場所から見て戌亥の方位に深川神社が鎮座することになります。従来からの村人が深く信仰する深川神社が、戌亥の隅に坐す地主神として解釈されることになります。それと同時に山ノ神は、竃屋の人々にとって生業の場である山を守護する神であると同時に、村人たちの田の神として信仰される神であることから、吉祥地に新たに山ノ神を祀ることに抵抗感はなかったものと推測できます。
◆鬼門(きもん)と裏鬼門(うらきもん)
方位信仰について、日本独自の風水、鬼門と裏鬼門があります。徳川家康は江戸遷都において、平安京と同様に鬼門を封じることを最も重視しています。東北の方位を鬼門といい、陰陽道では鬼が出入りする不吉な方角として忌み嫌われました。このため江戸城の鬼門にあたる地に、江戸の総鎮守として寛永寺を建立しています。また家康は、裏鬼門も同様に重視し、徳川家の菩提寺として増上寺を移したといわれています。
瀬戸村の本郷地区でも江戸城と同様に、鬼門封じとしての地に宝泉寺が鎮座します。そして、裏鬼門の場所には石神社(西郷町)、 熊野神社(熊野町)を確認することができます。
◆神社の場所には意味がある?
江戸時代をとおして年貢を免除された神社は、深川神社のほか、熊野権現、山ノ神、石神社、諏訪明神の5社でありました。石神社は、宝泉寺と山ノ神を結ぶ延長線の場所で、山ノ神から測って京間200間(約394m)の場所に、また熊野権現は宝泉寺と山ノ神、石神社を結ぶ延長線と今村道とが交わる場所が目印とされ、経塚山頂上とここを結ぶ距離約880間(約1740m)は、経塚山と品野道沿いにある五位塚古墳とを結んだ距離と同じになります。諏訪社は、経塚山頂上を軸として、深川神社との距離約380間(約750m)を半径とする円と、深川神社を軸として山ノ神との距離約300間(約590m)を半径とする円の交わる位置にあったものと推定されます。この場所は、経塚山頂上から「山ノ神」を通過する真北の方角、いわゆる子午線(しごせん)上の場所にあたります。また、丑寅の方位に位置する五位塚古墳は、神が降りてくる場所、すなわち「盤座」(いわくら・岩倉)と見立てたのかもしれません。
いずれにしても、今村との村境に熊野権現、上水野との村境に近い子午線上の場所に諏訪明神、赤津村との村境には稲荷社が主要道沿いの場所に鎮座している、あるいは鎮座していたのです。瀬戸村の鎮護を祈って、艮(うしとら)、巽(たつみ)、坤(ひつじさる)、乾(いぬい)の四方に神社を配したと考えられます。
『陶都瀬戸村物語』-陶都瀬戸村の誕生秘話と陶祖碑建立の謎解き- より