ハワイ島のヒロ大神宮について
元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川 一年
今年のハワイは、日本人の移民が始まって150年にあたり、多彩な行事が行なわれる。年の初めの6日にヒロのサンガホールで、海洋練習船「日本丸」(帆船)の歓迎式典が行なわれた。訓練生90人(内女生徒16人)を乗せて20日間要してホノルルに到着、この日はハワイ島での行事であった。
2月4日にはヒロ大神宮の参集殿(ホール)で「日布文化交流祭(アイカネフェスティバル)」が開かれた。冠に、「祝 明治元年者移民150周年―日本人パイオニアに敬意と感謝を込めて」とある。ハワイ大学ヒロ校など各種団体が参加し、日本の餅つきや茶会、姉妹関係を結ぶ伊豆大島の踊り、沖縄の琉球巫女舞やチャンタそしてハワイのフラダンスなど終日市民で賑わった。
日本人の海外移民は、1868(慶応四)年5月17日に英国籍帆船で横浜港を出航した150人によって始まった。後に「元年者」と呼ばれるようになったこの人たちは、日本とハワイ(布哇)王国との親善協定にもとづくもので3年間のサトウキビ耕作労働を目的とした。
やがて明治政府による「官約移民」が開始され、「私的移民」・「自由移民」・「呼び寄せ移民」と形式は変わったが多くの日本人がハワイに渡ったのである。最盛期にはハワイ王国(後州に)の総人口の約4割が日本人・日系人が占めるほどになったのである。
過酷な労働条件の中で働いた日本人移民の「ホレホレ節」という仕事唄を採集している。
「行こかメリケン(よ)帰ろか日本 ここが思案のハワイ国」
「ハワイハワイと(よ)夢見てきたが 流す涙もキビの中」
「横浜出たときゃ(よ)涙で出たが 今じゃ子もある孫もある」
ハワイの中で日本人移民の社会生活向上に果たした宗教組織の役割は大きかった。仏教界では、1889(明治22)年に浄土真宗本派本願寺派の曜日(かがい)蒼竜師が単身赴任、ホノルルのエマ街に仮布教所を開設したのに始まり、その後も各宗派が相次いで進出した。
初期の寺院や僧侶は日本人移民の生活・医療・教育などあらゆる面の指導の役割を果たした。後にはアメリカ文化を取り入れ、社会との摩擦を避けながら努力を重ねて、日本人・日系人の社交センターとして生活の中心となっていったのである。ちなみに、ハワイ州の最大の島ハワイ島には、本派本願寺13、東本願寺2、浄土宗6、真言宗5、曹洞宗2などの寺院が今も活動している。さる2月4日に真言宗ヒロ法眼寺の「星まつり」に参加してきた。日本の豆まきの行事で、護摩壇で護摩木を焚き、前日に搗いた餅を配って祝った。
ヒロ大神宮外観
ハワイの最初の神社は、ハワイ島のヒロ大神宮である。1898(明治31)年に「大和神社」(合志覚太初代宮司)として誕生した。神社正庁の海外で最初の神社(祭神は伊勢の両大神、宮中の諸神)であった。その後各地に分社・講社が設けられ、婦人会・青年会・処女会などの組織化が図られ、付属学校を持った時期もあった。真珠湾攻撃による日米開戦によって活動停止期間が続いたが、戦後布哇嶋総鎮守ヒロ大神宮として活動を再開した。
現在の宮司は6代目渡辺大蔵宮司(平成11年就任)に代わって、平成25年岐阜県出身の堀田尚宏宮司が7代目に就任した。堀田宮司は意欲的に改革に務め、年中行事の中に月例祭(月次祭)を取り入れたり、どんど祭や夏祭り(ボンダンスという盆踊り大会)も始めた。
「神人和楽」の広報の発行、先の文化交流祭のような文化活動にも積極的である。
ヒロ大神宮に津波を乗り越えた狛犬が残されている。元の神社の位置は、ヒロ湾に面した椰子島(現在のココナッツアイランド)地区にあったが、1960(昭和35)年のチリ大地震による10mを超す大津波によって流失して、その時に相方を失った。紀年銘は無いがハワイ生まれハワイ育ち、台座とも総高98㎝・幅70㎝の鎮護戌である。
ちなみに、瀬戸市産の干支の狛犬をヒロ大神宮にも法眼寺にも奉納させていただいた。