「陶祖碑」はなぜ藤四郎山が選ばれたか?
元瀬戸市文化振興財団事務局長 谷口雅夫
「陶祖碑」は1年3か月の歳月をかけ、慶応3年(1867)9月2日にようやく完成をみました。陶碑の高さは4メートル35センチを測る、陶製碑としては日本最大級の構造物です。全部で29のパーツで構成されています。棹(さお)の部分は六角柱で、1面の高さ2メートル、幅60センチで、6面にわたり陶祖の由来が詳細に陰刻されています。推定の重量は、棹部分のみでも1.8~2.2トン、碑の総重量はなんと4~4.6トンにもなるようです。建碑計画を推進したのは、山陶屋の加藤清助景登でした。
ところで、「陶祖碑」は藤四郎山(陶祖公園内)に建立されましたが、どうしてこの場所が選ばれたのでしょう。一番の理由は、建立した場所が清助景登の所有地で、この土地を寄附したからとされています。そのほか、『尾張名所図会(ずえ)』によると、「山麓に登れば、中央には瀬戸川の流れ布を曳けるがごとく、遠くは名古屋の金城をはじめ濃勢の山々まで眼下につらなり、実に“村中一の名勝”」と、この場所からの景色を高く評価しています。なるほどと思われますが、どうやら選ばれた理由はほかにもあるようです。そこには、忘れ去られた風水思想の考えや信仰の姿が見えてくるのです。
そのヒントは、「陶祖碑」の形状にあります。「陶祖碑」は六角形をしていますが、愛知県江南市の文化財に指定されている、別名「お亀塚」と呼ばれる「小折村(こおりむら)の富士塚」を参考にしたという説があります。その理由は、尾張藩士小田切春江が『尾張名所図会』の挿図を担当しており、小折村の富士塚の項で碑を描いています。春江は『尾張名所図会』を作る際に、清助景登に瀬戸の陶器の話を聞くことができたとされ、面識があるようです。「陶祖碑」の基部には建立に携わった人物の名が刻まれます。「小田切忠近(春江のこと)」の名前も刻まれることから、これに関わったのはまず間違いないと考えられます。
なるほど、よく似ています。それにしても、なぜ「お亀塚」なのでしょう。それをひもとくカギは「陶祖碑」の第2段目に陰刻された文字にあります。「於洛玄」「亀負書」「出於背上 齢斎書 □」「願主 加藤清助 施志窯屋中」「洛出書」「堯況璧」と陰刻されます。これは「河図洛書(かとらくしょ)」の引用文であり、文字の内容は、中国神話に登場する君主「堯(ぎょう)」が祭司用の玉器を洛水(黄河)の奥深いところにくださったら、亀が背中に書(文章ではなく数表の模様)を背負って現れたと言うものです。まさしく、「お亀塚」はそれを表現しているのです。「陶祖碑」が六角形をしている理由は、「お亀塚」を模していると言われますが、亀の甲羅を形取ったことにあったのです。
では、なぜ「亀」なのかといった疑問が未だ残ります。そこには風水思想の考え方が取り入れられているのです。「陶祖碑」の建つ藤四郎山は、瀬戸村の本郷の中心である「山ノ神」(現在の山口神社)からみて北方にあたり、四神相応(玄武・朱雀・青龍・白虎)の北の「玄武」(亀の甲羅に蛇が巻きついたかたち)とみなされるからです。「陶祖碑」の碑文のなかに、「蛟龍黿鼉(こうりゅうげんだ)、況(いわ)ンヤ敢(あ)ヘテ防ゲンヤ」という陶祖藤四郎の恩徳を称える歌があります。蛟龍はみずち・龍、黿鼉は大きなカメ・すっぽんを意味します。この組み合わせをみると、碑文からも「玄武」を意識していることが読み取れるのです。このようにみてくると、風水思想の北の守護神「玄武」から「亀」としたと考えることができます。
そればかりではありません。清助景登は、明治14年(1881)に喜寿祈念として、陶祖碑の北西隣に陶磁器製の「陶工追善碑」を建立しています。現在は失われて見ることはできませんが、胴部が七角形をした碑の正面には、「天下泰平 北辰妙見敬 五穀成就」の文字が彫り込まれていました。妙見信仰は、北辰信仰の仏教的な解釈としてとらえられています。すなわち、道教の北辰・北斗信仰が日本においては密教の妙見信仰と習合しているといわれ、北極星・北斗七星に対する信仰がそのベースになっています。
藤四郎山は「山ノ神」の北の方角に位置しますが、北は太極を象徴する宇宙の絶対神、「太一(たいいち)」の居所であり、天を象徴するとされています。太一とは、中国天文思想から生み出された最高の天神であります。本郷の中心である「山ノ神」から陶祖碑を拝礼したとき、陶祖碑の頭上の北の空には太一、すなわち北極星が輝いていると言うものです。あるいは、陶祖を太一になぞらえたと解釈することもできます。
いずれにしても、現在では遠い存在となってしまった風水思想、あるいは星辰信仰や中国天文思想が「陶祖碑」建立には秘められているのです。