去る8月3日、山梨県の八ヶ岳にご鎮座する身曾岐(みそぎ)神社の能楽殿で薪能を鑑賞する機会を得た。8月4日の例祭に先立ち執り行われ、大神の御心を慰め奉る神事でもある。当日の開始時刻の天気は、予報では雨。見上げると黒い雲が青空を切り取っている。遠くでは雷の音がする。驚いたことに、短い時間ではあるが、舞台上空に虹がかかった。観客には雨合羽も用意されたが、聞くところによるとこれまでに雨で中止なったことはないと言う。
日本で唯一野外に建てられた能楽殿は、池の中にあるので舞台にかかる橋掛かりが室内で見るよりも意味合いを深め一層際立つ。鯉が泳ぎまわり、時折おもむろに跳ね上がるのも、演出の一つのようにさえ感じられてしまう。また、時おり蜩の細くやさしい儚げな鳴き声が夕闇に響くのは、趣があり異空間を感じさせる。正に非日常を演じる能にはふさわしい。
能面は、面それ自体が変わるわけではないが、被る演者の微妙な動きに合わせて表情が変化する。音もなく舞台の上を静かに滑るように動く白足袋が艶っぽい。片手を面にかざすだけで哀しみを表す。抑えに抑えた形の中に美しさある。
この日の演目は、吉野天人、呼声、そして、葵上であった。やはり、注目すべきは、葵上の観世清和氏による六条御息所である。眠ると抑えられた潜在意識の嫉妬と怨みが生霊となり源氏の正妻である葵上を苦しめる。
橋掛かりの欄干に佇み、ふと水面に映る鬼と化した我が姿に驚き、悲しむ六条御息所。鏡に姿は写るが、心の在り様は写らない。しかしながら、「鬼」は、誰の心の中に潜んでいるものかもしれない。自分自身の心の中を覗きみたようで、はっとしたのは、私だけだろうか。
己を知った鬼は、心の平安を求めて、葵上を救うために招かれた行者の祈りに我が身を委ねて、再び橋掛かりから消えていった。