年頭の瀬戸歳時記は、フォトスタジオ伊里さんの80年ほど前の瀬戸市の風景写真が掲載された。年月の流れの中でこの深川神社の周辺も写真が如実に示す通り様変わりしている。不変のものを数え上げることは難しいほどに変わっていくのは世の常であろう。しかしながら、寂しさを感じる出来事がこの三月末にあった。
それは、慣れ親しんだ二つの商店の店じまいである。
一つは、末広町商店街の中にある乾物や自然食品を扱う入久さん、もう一つは尾張瀬戸駅から近い陶本町にある八百屋ヤオヒデさんである。どちらも日々の買い物もそうであるが、神社のお供え物を用意してもらっていたお店である。入久さんは、スルメと昆布はいつもこの店のものを使っていた。少し値段は高めであるが、厳選された質の良い品を仕入れることにこだわりを持ったお店だった。また、ヤオヒデさんは、季節ごとの旬の野菜、果物やお正月のお供え一式を揃えてもらったりしていた。どちらの店主も神前に供えるということをきちんとわきまえて相応しい品を下さった。だから、神様もさぞ残念がっていらっしゃることだと思う。
もちろん、小売店だけに足を運ぶわけでなくスーパーマーケットを利用はするが、「何かいいものあるかしら」「今日は、これが仕入れたばかりでいいよ」などと交わすやりとり、何気ない世間話など、そこにある人と人との交流は、セルフレジでバーコードを読み取ってカゴに移す便利さからは得られない。これまで頼っていただけに、これからちょっと不便さを覚えるかもしれないが、仕方のないことである。
店をたたむに至る迄には、それぞれの事情がありにおそらく苦渋の決断があったことであろう。神社をたたむことは、あり得るか。あり得なさそうで、あり得る話だと考える。それは、個人店舗から人足が遠のいて経営に影響するように、町々ある小さな無人の神社は、それを支えてきた地域の人々の崇敬の念、お参りが途絶えると維持管理していけなくなる。実際にそういう状況は起こりつつある。地域の神社の荒廃を食い止めていくかは、神職だけでなく神社を取り囲んで住んでいるいわゆる氏子さんの力なくしては如何ともしがたい。
神と人、人と人とが交わる場所である神社の存在意義をしっかりと考え、伝えることは急務であると思う。近所に八百屋があると便利であるように、近所に神社があると安心と言えるように八百万の神たちお願いしなければ。